伝記
フリードリヒ1世は、ツェーリンゲン家に属するバーデン=バーデン辺境伯である。1246年、母方の大叔父にあたるオーストリア公フリードリヒ2世がライタ川の戦いで戦死し、バーベンベルク家の公爵の家系は絶えた。それから数年後の1249年または1250年に、フリードリヒ1世はオーストリアのアラントで生まれた。父はバーデン辺境伯ヘルマン6世、母ゲルトルートはバーベンベルク家の女子相続人で、フリードリヒ1世は一人息子だった。ヘルマン6世は妻を通じてオーストリアとシュタイアーマルクの継承を主張し、教皇インノケンティウス4世や対立王ウィレム・ファン・ホラントの支持も受けたが、1250年にホーエンシュタウフェン家の皇帝フリードリヒ2世が死ぬと帝国の権威が不在になって主張を認める者がなく、ボヘミア王ヴァーツラフ1世とその好戦的な息子オタカル2世の主張に対抗できなかった。
同じ1250年にヘルマン6世は25歳で死去した。幼いフリードリヒ1世はバーデンを継いだが、叔父のルドルフ1世が共同統治者、あるいは摂政となった。母ゲルトルートはマイセンの宮廷に逃れており、フリードリヒ1世もそこにいたとされる。母方を通じてオーストリアとシュタイアーマルクの公位を求める立場でもあったため、ウィーン近くに居を定めた。しかし1252年にオタカル2世がゲルトルートの叔母マルガレーテと結婚してオーストリアに入ると、再び逃げなければならなくなり、まずシュタイアーマルクへ、のちにケルンテンのスポンハイム家の宮廷へ移った。
1266年ごろから、バイエルン公ルートヴィヒ2世のヴィッテルスバッハ家の居城で育ち、そこでシュヴァーベン公コッラディーノと友人になった。コッラディーノはドイツ王コンラート4世の幼い息子で、シュタウフェン家の帝室の後継者だった。フリードリヒ1世は彼に、自分の権利を押し通すための支えを期待したのである。
1267年、シチリア王にしてエルサレム王でもあったコッラディーノとともにイタリアへ遠征した。この遠征は、教皇クレメンス4世からシチリア王に戴冠され、1266年のベネヴェント近郊の戦いでコッラディーノの叔父マンフレーディを殺したシャルル・ダンジューに向けたものだった。コッラディーノは1268年7月24日にローマに入ったが、8月23日にシャルルがタリアコッツォの戦いでシュタウフェン家の軍を大敗させ、二人は逃げた。9月8日にアンツィオ南方のトッレ・アストゥーラで捕らえられ、従っていたフランジパーニ家に裏切られてシャルルに引き渡された。二人はナポリの卵城で屈辱的な幽閉に置かれ、シャルル自らが死刑を言い渡した。判決を聞いたとき二人はチェスをしており、そのまま指し続けたという伝説がある。10月29日、メルカート広場で公開の斬首刑に処された。遺体は急いで埋葬されたのち、コッラディーノの母エリーザベト・フォン・バイエルンの求めでサンタ・マリア・デル・カルミネ教会に移された。
フリードリヒ1世の死後、バーデンは叔父のルドルフ1世が単独で治めた。オーストリア公国はオタカル2世が手にしたが、オタカル2世は1278年にハプスブルク家のルドルフ1世に敗れて戦死し、その地はハプスブルク家の家領となった。
同じ年に亡くなった人物
- Thomas the Archdeacon (1268年)
- コッラディーノ (1268年没)
- ヨハン3世 (ブランデンブルク辺境伯) (1268年)
- 秦九韶 (1268年没)
- ラニエル・ゼン (1268年)
同じ地域に関係する人物
- ヨハン・ショーバー (1932年没)
- Bruno (1045年没)
- ゴットフリート・フォン・アイネム (1996年没)
- カール・ゼスタ (1974年没)
- ルドルフ (オーストリア皇太子) (1889年没)