HISTORICAL PERSON · 1936年没

G・K・チェスタトン

イギリスの作家・批評家・詩人。カトリックのブラウン神父が事件を解く探偵小説シリーズが古典として知られ、ディテクション・クラブの初代会長を務めた。

生涯
1936年没
死亡地
イギリス連邦(バッキンガムシャー / ビーコンズフィールド)
出生地
イギリス連邦(ケンジントン)
出典
世界地図
イギリス連邦(バッキンガムシャー)

伝記

ギルバート・キース・チェスタトンは、1874年5月29日にロンドン西部のケンジントンで、不動産業・土地測量業の家に生まれたイギリスの作家、批評家、詩人、随筆家である。1887年にセント・ポール校に入学すると、1年下のE・C・ベントリーと出会い、生涯の親友となった。当初は画家を志し、1891年にロンドン大学付属のスレード美術学校に入ったが挫折し、文学を志すようになった。ロンドンでは文壇付き合いをし、パブに入り浸る生活を続けたという。1900年に詩集『戯れる白髪』と『野生の騎士』の2冊で文壇にデビューした。

フランセス・ブロッグと恋に落ち、1901年に結婚した。結婚式の当日には、遅刻しそうになって急いでいたが、馴染みの銃砲店の主人から、以前頼んだ猟銃が手に入ったと声を掛けられた。喜んでその場で購入し、銃を携えたまま式に向かったため、列席者に「新婦を殺害する気か」と勘違いされたという逸話が伝わる。妻の影響と、盟友ヒレア・ベロックがカトリック教徒であったことから、アングロ・カトリックに魅かれていった。1904年にはマクミラン社の『英国文人叢書』の1冊として評伝『ロバート・ブラウニング』を出版し、批評家から高い評価を得た。同年には『ノッティング・ヒルのナポレオン』も出版している。1906年に著したディケンズの評伝は、T・S・エリオットらによってこの分野の最高のものと見なされた。文明論としては、1905年に『異端者の群れ』、1909年に『正統とは何か』を著している。

ボーア戦争の勃発に際しては反イギリス側の論客として頭角を現し、自由主義派の有力な論客として、イギリスの政治・社会を批判した。弟セシルが、無線通信会社マルコーニ社の汚職事件に絡んで告訴され、裁判に敗れた。弟が第一次世界大戦に出征すると、言論誌『新証言』の編集と経営を引き継ぎ、のちに誌名を『週刊G.K』として、終生その重責を担った。弟はフランス戦線で戦い、終戦直前に戦死している。1909年にバッキンガムシャーのベコンズフィールドに移住して、静かな田園生活を送った。1922年には、ブラウン神父のモデルとなったジョン・オコンナー神父の手でイングランド国教会からカトリックに改宗した。以後はキリスト教的歴史観から批評活動を行い、後期ヴィクトリア朝の物質主義や機械万能主義からくる自己満足を鋭く批判した。警句と逆説を駆使した文芸批評、文明批評で、資本主義と社会主義の双方を排撃し、配分主義を提唱した。H・G・ウェルズのベストセラー『世界文化史体系』をめぐってウェルズと論争し、これが『人間と永遠』の出版につながった。

ブラウン神父が事件を解明するシリーズは探偵小説の古典として知られ、江戸川乱歩は、チェスタトンのトリック創案率は探偵小説随一だとした。ディテクションクラブの初代会長を務めた。並外れて大きな体躯でも知られ、ジョン・ディクスン・カーが創造した探偵ギデオン・フェルのモデルともいわれる。一方、当時の知識層の例に漏れず、他民族への偏見や蔑視が色濃いことも特徴とされる。1936年6月14日に没し、葬儀はウェストミンスター大聖堂で行われた。司式したのは、推理作家として有名なロナルド・ノックスであった。

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