伝記
マリア・ラスカリナは、1206年頃にニカイアで生まれた、ハンガリー王ベーラ4世の妃である。ハンガリー語ではラスカリス・マーリアと呼ばれる。父はニカイア帝国の初代皇帝テオドロス1世ラスカリス、母は皇帝アレクシオス3世アンゲロスの娘アンナ・アンゲリナで、その次女にあたる。姉のイレーネは1212年に、父が後継者に定めていたヨハネス・ヴァタツェスの妃となっている。次女のマリアの結婚は帝位に結びつくものではなく、ハンガリー王国との同盟を固めるためのものだったという。十字軍から帰国する途中のハンガリー王アンドラーシュ2世がニカイアの領内に立ち寄り、皇帝に王子ベーラの妃として娘を迎えたいと申し込んだ。
マリアは1218年にハンガリーへ連れて行かれ、ギリシャ正教からカトリックに改宗した。当時、花嫁も花婿も12歳ほどだった。結婚は1218年とも1220年ともいわれる。二人の間には約10人の子が生まれた。長女は聖人となるキンガ(1224年生まれ)で、ポーランド王ボレスワフ5世の妃となった。ほかに、アンナ、エルジェーベト、コンスタンツィア、ヨラーンらの娘と、1239年生まれの息子イシュトヴァーン、1242年に生まれ、のちに聖人とされるマルギトらがいる。
1234年、アンドラーシュ2世はベーラとマリアが反対したにもかかわらずベアトリーチェ・デステと結婚した。翌1235年にアンドラーシュ2世が死ぬと、ベーラがベーラ4世として即位し、マリアは王妃となった。亡き王の最後の妃ベアトリーチェが王の子を身ごもっていると告げられると、不義の疑いをかけられ、まもなく国を追われた。この追放ではマリアが中心的な役割を果たしたという。1241年、バトゥ率いるモンゴル軍がハンガリーに侵入し、モヒの戦いでベーラ4世の軍は敗れた。王は国の南西部へ逃れ、マリアはまずオーストリアに入ってフリードリヒ2世のもとに身を寄せ、のちにスプリトを経てクリスの要塞へ移った。この逃避の間に二人の娘、年長のマルギトとカタリンを失った。モンゴル軍が去ると、マリアは夫と再会して国の復興にあたり、これによってベーラ4世は「第二の建国者」と呼ばれるようになった。
晩年のマリアは、1260年代に夫と息子イシュトヴァーンが権力をめぐって争ったことで苦しんだ。若い王子ベーラは両親を支えて兄と戦ったが、1269年に亡くなった。ベーラ4世は1270年5月3日に死去し、マリアはそれから2か月ほど後、同じ年の6月に亡くなった。死去の日は6月16日、6月24日、7月23日などと伝わる。遺体はエステルゴムに葬られた。
後世、近代ギリシャ王国の初代国王オソン1世がギリシャ王に推されたとき、理由の一つに、マリアの息子イシュトヴァーン5世の子孫で、東ローマ皇帝の末裔であることが挙げられた。ほかのギリシャ国王候補者もマリアの血を引いていた。
同じ年に亡くなった人物
- サンボル2世 (1270年代没)
- アルフォンス・ド・ブリエンヌ (1270年没)
- マルガレータ・フォン・シュタウフェン (1270年没)
- トマ・ド・カンタンプレ (1270年)
- Margaret, Marchioness of Namur (1270年)
同じ地域に関係する人物
- バラッシ・バーリント (1594年没)
- カール・フォン・エスターライヒ=エステ (1809年没)
- ヴィテーズ・ヤーノシュ (1472年没)
- Tivadar Monostori (2014年没)
- ブザーンスキー・イェネー (2015年没)