HISTORICAL PERSON · 1273年没

ムハンマド1世 (ナスル朝)

ナスル朝グラナダ王国の建国者。カスティーリャとの抗争を経てグラナダに拠点を定め、後に世界遺産となるアルハンブラ宮殿の建設を始めた。

生涯
1273年没
死亡地
スペイン王国(グラナダ県 / グラナダ)
出生地
スペイン王国(アルホーナ)
出典
世界地図
スペイン王国(グラナダ県)

伝記

ムハンマド1世は、イベリア半島に最後まで残ったイスラーム国家、ナスル朝グラナダ王国の建国者である。正式にはアブー・アブドゥッラー・ムハンマド・イブン・ユースフ・イブン・ナスルといい、通称をイブン・アル=アフマルという。1195年ごろ、当時ムスリム勢力の最前線にあった小さな町アルホナに生まれた。低い身分の出身で、カスティーリャの年代記は、彼が雄牛と犂を追う以外の仕事を持たなかったと伝える。若いころから国境地帯で指導力を発揮し、禁欲的な暮らしぶりでも知られ、統治者になってからもそれを保ったという。1230年より前に、父方の従姉妹アイーシャと結婚した。

1224年にムワッヒド朝のカリフが後継者なく没すると、半島南部のムスリム圏は小君主の割拠する状態に陥り、ムルシアのイブン・フードが事実上の指導者となった。しかしイブン・フードがキリスト教徒に敗れ続けて威信を失うと、各地で反乱が起きた。1232年7月16日、アルホナのモスクで開かれた集会で独立が宣言され、信心深く、対キリスト教徒の戦いでも戦功のあったムハンマドが町の指導者に選ばれた。同年中に重要都市ハエンを奪い、一時はコルドバも占拠したが、1234年にセビリアを占領しても1か月しか保てず、イブン・フードに再び忠誠を誓って、アルホナやハエンなどの小領を治めることになった。1236年に再びイブン・フードに背き、カスティーリャ王フェルナンド3世と手を組んでコルドバの征服を支援した。1237年5月には市内の名士の手引きでグラナダを征服し、1238年にはアルメリア、1239年にはマラガを得た。これらは軍事力よりも政治工作と住民の支持によって手に入れたという。

1238年5月、ムハンマドはスーフィーのような粗末な服装でグラナダに入り、アルカサバに居を定めた。そしてアル=ハムラーの地を調べ、のちのアルハンブラ宮殿となる宮殿兼要塞の基礎を築き始めた。建設の費用を集めるため、徴税吏に圧力をかけ、見せしめにアルメリアの徴税吏を処刑した。1240年代前半にはカスティーリャとの戦争に入り、1244年に故郷アルホナを占領され、1245年にはハエンを包囲された。補給は阻まれ、7か月後の1246年3月に和平を結び、ハエンを割譲して、毎年15万マラベディを貢納することになった。ムハンマドはフェルナンド3世の手に接吻し、服従と助言・援助を誓った。この和平は20年近く守られた。1248年には、セビリア征服にカスティーリャの援軍として兵を送り、1254年にはトレドの議会に出て、アルフォンソ10世への臣従と貢納を改めて誓った。この間の1256年に長男ファラージュが若くして亡くなり、ムハンマドは深く悲しんだと記録される。弟イスマーイールは、マラガの総督に任じられたが1257年に没した。

1264年、ムハンマドはカスティーリャ領内のムスリムの反乱を支援してカスティーリャと決別したが、失敗に終わり、グラナダの同盟者アシュキルラ家も反乱を起こした。これがアルフォンソ10世の手引きによると知ると、ムハンマドはカスティーリャの将軍ヌーニョ・ゴンザレス・デ・ララを説得し、アルフォンソ10世に対して反乱を起こさせた。ムハンマドはカスティーリャともアシュキルラ家とも最後まで戦い続けたが、1273年1月22日、落馬の事故で世を去った。王国は息子のムハンマド2世が継いだ。ナスル朝は2世紀ほど続き、1492年にカスティーリャに併合された。

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