HISTORICAL PERSON · 1937年没

エヴゲーニイ・ザミャーチン

ロシアの作家。代表作『われら』のためソ連文学界から抹殺されたが、ペレストロイカ以降に再評価された。造船技師でもあり、革命運動に参加して流刑も経験した。

生涯
1937年没
死亡地
フランス共和国(パリ / 16区)
出生地
ロシア連邦(レベデャン)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

エヴゲーニイ・イワーノヴィチ・ザミャーチンは、1884年2月1日、ロシアのタンボフ県レベジャーニに生まれた作家である。父は正教会の司祭で学校の教師も務め、母は音楽家であった。本人は後に、同年代の友だちもなく、腹ばいで本を読み、あるいは母がショパンを弾くピアノの下にいる孤独な子どもだったと回想している。1902年からペテルブルクで造船工学を学び、夏には造船所で働いたり、中近東の国々を旅行したりした。在学中に信仰を捨てて無神論者、マルクス主義者となり、ボリシェヴィキの一員になった。1905年の革命ではオデッサでゼネストと戦艦ポチョムキンの反乱を目撃したとされ、同年12月、友人のためにピロキシリンの入った袋を自室にかくまった翌日、仲間約30人とともに警察に逮捕された。殴られ、独房に何か月も閉じ込められたが、獄中から秘密の手紙を出して仲間に証拠の始末を頼んだという。1906年春に釈放され、故郷の県に追放されたものの、そこでの暮らしに耐えられずペテルブルクに戻り、非合法に暮らして、フィンランドのヘルシンキへも移った。

変装して首都に戻ったころ、趣味として小説を書き始めた。1911年には再び逮捕され流刑になったが、このとき『ある地方の物語り』を書いた。1913年にロマノフ朝300年の恩赦でペテルブルクへ戻り、この作品が刊行されて名を知られ、1914年には『地方の果てで』を発表してネオ・リアリズムの作家として注目された。1908年に大学を卒業して造船技師となっており、1915年(1916年3月とする資料もある)に砕氷船建造の監督のためイギリスに派遣され、設計から完成まで関わった。1917年9月に帰国し、その体験を生かしてイギリス紳士の偽善を暴いた中編『島の人々』を1918年に発表した。十月革命後はゴーリキーとともに世界文学出版所などの活動に参加し、1920年には全露作家同盟ペトログラード支部の組織に力を尽くして執行委員となった。1917年から1920年代半ばまで、ロシア文壇の中心の一人で、作家グループ「セラピオン兄弟」も彼の強い感化を受けた。

しかし、共産主義の前途に憂うべき兆候を感じ始めた。1918年、ボリシェヴィズムだけを唯一の真理と認めることを拒み、チェーカーを暗に示した短編『龍』を左派エスエルの新聞に発表した。1920年から翌年にかけてディストピア小説『われら』を執筆したが、この作品はソ連で検閲により禁じられた最初の作品となったとされる。英訳が1924年にニューヨークでロシア語版より先に出版され、1927年にチェコの亡命ロシア人の雑誌でロシア語の原文が発表された。1922年後半には逮捕、投獄されたが友人の援助で釈放され、出国を申請して拒まれた。その後、非共産党員作家への論難が強まり、1929年にはその作家たちへの粛清が始まった。ザミャーチンは抗議して作家同盟を脱退した。

1931年、あらゆる出版活動を禁じられた47歳の彼は、ゴーリキーの仲介でスターリンに手紙を書き、妻とともに国外へ出る許可を求め、1年間の許可を得てソ連を離れた。翌年パリに移り住んだが生活は恵まれず、映画のシナリオの共同執筆や歴史小説に力を注いだ。1937年3月10日、心臓病のためパリで客死し、ティエ墓地に埋葬された。ソ連文学界は彼と『われら』を長く抹殺したが、ペレストロイカ以降に再評価されている。

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