伝記
賈似道は、1213年に生まれた南宋末期の軍人・政治家である。字は師憲、台州天台県の出身で、南宋に仕えた賈渉の庶子だった。母の胡氏は賈渉の妾で、似道を産んでまもなく家を追い出された。のちに出世した似道は、貧しい母を迎え入れ、母は斉国夫人に封じられた。1219年に父が淮東制置使となると、似道も父に従って楚州に移ったらしいが、11歳のときに父は亡くなった。成人後は、父の功績で籍田令や嘉興の司倉の官職を受けた。理宗の寵妃だった姉の働きかけにより、1238年に科挙の予備試験を免除され、殿試に及第して進士となった。1246年には、国境でモンゴルとの戦いを指揮していた孟珙の後任として京湖制置使に任じられ、湖北で築城により国境の守りを固めた。1258年に両淮宣撫大使となり、前線にいながら宰相と同じ待遇を受けた。
同じ年、モンゴルのモンケは自ら四川に攻め込み、弟のクビライを鄂州に、将軍ウリヤンカダイを広西から湖南に進め、三方から南宋を攻めた。賈似道は鄂州の軍事を取り仕切ってクビライの攻撃を防ぎ、1259年には四川の呂文徳とともに、鄂州を囲んだウリヤンカダイの軍を攻撃した。モンケが四川で病没し、クビライは後継の座をうかがって北へ帰り、ウリヤンカダイも退いた。同年10月、賈似道は陣中で右丞相に任じられ、翌年3月には長江を渡ろうとするウリヤンカダイ軍の最後列を攻め、モンゴル側に約170人の死者が出た。領地の割譲と貢納を約束する密約を結んだとする説もあるが、疑問視されている。戦後は、功績のあった向士璧や曹世雄まで免職や流刑にして軍紀を引き締める一方、文官には過去の過失を問わず柔和に接した。クビライの使者の郝経は、情報が漏れるのを防ぐために投獄した。
1264年に理宗が亡くなって度宗が即位し、1265年に賈似道は太師を加えられ、魏国公に封じられた。西湖を見下ろす葛嶺の集芳園に建てた半閑堂で政務を執り、館客の廖瑩中が政務を取り仕切って、大臣たちは書類の内容を検討せずに署名するだけだったという。宰相として会子の乱発によるインフレに対処するため、公田法を行い、200畝以上の田を持つ大地主から3分の1を買い上げて小作人に貸し、その租米を兵糧にあてた。自分も1万畝を寄付したが、地主の反対で浙西で350万畝を買った時点で打ち切られた。骨董の収集家としても名高く、集芳園の多宝閣に名画や古銅器を収め、古墓の発掘もいとわなかった。コオロギを戦わせる闘蟋も好み、『促織経』を著した。
1268年10月に襄陽が元軍に包囲されたが、賈似道はこれを度宗に隠した。下問を受けると女婿の范文虎を救援に出し、戦況を密告した者を殺したともいわれる。1273年3月に守将の呂文煥が元に降伏した。1275年3月、賈似道は蕪湖に艦隊を停め、元軍の司令官バヤンに和睦を提案したが退けられた。夏貴と孫虎臣に艦隊を与えて戦わせたが、丁家洲の戦いで大敗した。賈似道は李庭芝のもとへ逃げ、恭帝の避難を進言する手紙を朝廷に送った。朝廷では彼を極刑にせよという声が上がったが、太皇太后の取り成しで循州に流された。漳州の木綿庵で会稽県尉の鄭虎臣に殺された。徳祐元年9月19日(1275年10月9日)のことである。動機は鄭虎臣の私怨、あるいはかつての腹心陳宜中の指示などとされる。
同じ年に亡くなった人物
- マーガレット・オブ・イングランド (1275年没)
- ボエモン6世 (1275年)
- フェルナンド・デ・ラ・セルダ (1275年没)
- ベアトリス・ダングルテール (1275年没)
- ウィテロ (1275年)