伝記
アブー=アブドゥッラー・ムハンマド・アル=ムスタンスィルは、チュニスを中心とする地域を支配したハフス朝の第2代君主である。初代君主アブー・ザカリーヤー1世の子で、1247年には「狩猟について」と題する書物を著した。北アフリカでの狩りの方法を記したもので、サルーキ犬を使う狩りの章がとくに興味深いとされる。ほかにも、鷹の訓練や飼育、ビゼルトにあった自分の領地で用いられた技術などが扱われている。
1249年に父が死去すると、跡を継いだ。1253年にはアミール・アル=ムウミニーンの称号を名乗り、カリフを称した。1257年には、カネムの支配者が友好の贈り物としてキリンを送ってきたと、イブン・ハルドゥーンは伝えている。1258年にモンゴル帝国がアッバース朝を滅ぼしたのち、モロッコのマリーン朝のスルタン、アブー・ユースフ・ヤアクーブがこの地位を承認した。翌1259年にはメッカのシャリーフ、アブー・ヌマイイが承認し、1260年にはマムルーク朝も承認したとされる。ところが、1261年にマムルーク朝のバイバルスがアッバース家の生き残りであるムスタンスィル2世をカリフに擁立すると、東方でのカリフとしての地位は失われた。マムルーク朝の公文書にアル=ムスタンスィルのカリフの地位を認めたものはなく、14世紀末以降のマムルーク朝の知識人も、彼のカリフの地位には否定的な見解を示している。いっぽう、1264年にはグラナダの首長ムハンマドが彼を承認した。
アル=ムスタンスィルはシチリア王国の臣下だったが、国王マンフレートが倒されてシャルル1世が王となると、臣従を解いた。1267年、フランス王ルイ9世は新たな十字軍を呼びかけた。弟のシャルル1世は、エジプト攻撃の足がかりとして先にチュニスを攻めるよう兄を説得した。アル=ムスタンスィルは、キリスト教国のスペインとのつながりからキリスト教に好意的だという噂があり、改宗させやすい人物とみなされていた。そのため、十字軍が到着すれば改宗するかもしれないとシャルルは兄に話したという。こうして第8回十字軍は、1270年にチュニスへ向けられた。
7月、ルイ9世はアフリカの海岸に上陸したが、軍の多くが飲み水のせいで病に倒れ、ルイ自身も胃の病で死去した。最後の言葉は「エルサレム」だったという。シャルルはルイの子フィリップ3世を新王と宣言したが、若さのため実際に十字軍を率いたのはシャルルだった。病が続いたため、10月30日、アル=ムスタンスィルとの合意によってチュニスの包囲は解かれた。この合意で、キリスト教徒はチュニスでの自由な交易と、修道士や司祭の居住を認められた。エジプトのバイバルスは、ルイの死と十字軍の撤退を知り、チュニスへ軍を送る計画を取りやめた。
シャルル1世はハフス朝との国交の回復を望んでおり、ハフス朝と十字軍の間に和平が成立した。その後、地中海貿易で多くの利益を得たハフス朝は、最初の黄金時代を迎えた。イベリア半島やイタリア半島の国家はハフス朝に修好を求めた。アル=ムスタンスィルは1277年に死去した。その死後、ハフス朝では内紛が相次ぎ、急速に衰退していった。
同じ年に亡くなった人物
- コンスタンティン・ティフ (1277年没)
- ステファン・ウロシュ1世 (セルビア王) (1277年没)
- ヤフヤー・ブン・シャラフ・ナワウィー (1277年没)
- ヨハネス21世 (ローマ教皇) (1277年没)
- 陳太宗 (1277年没)
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