伝記
ヨハネス21世は、1276年から1277年に在位したローマ教皇である。本名はペドロ・ジュリアンといい、ラテン語ではペトルス・ヒスパヌスとも呼ばれる。今日に至るまで、ポルトガル出身では唯一の教皇であり、医学者でもあった唯一の教皇である。生年には諸説あり、1205年ごろとする説から、1210年から1220年のあいだとする説まで幅がある。リスボンに生まれ、父ジュリアン・パイス・レボロは医師で、彼も同じ道を歩んだとされる。
リスボン大聖堂の付属学校で教育を受け、15歳ごろから10年ほどパリ大学に留学して弁証法や論理学を学んだ。アルベルトゥス・マグヌスから、アリストテレスの自然学と形而上学の講義を受けたとされ、学芸学部で自由七科を修めたのち、神学部の課程も修了した。1230年代前半にはレオン王国で論理学を教えたとする推定があり、また医学も身につけて、1240年代半ばから1250年ごろにかけてシエナ大学で医学を教えた。この間か前後に書かれた『論理学綱要』は、中世の大学の教養課程で数百年使われ、数百版を重ねた、13世紀の代表的なスコラ論理学書とされる。執筆時期については、シエナ時代とする説と、それ以前とする説がある。ほかに、論理学の『共義語論』、心理学の『霊魂論の研究』、神学の『ディオニュシウスの著作註解』、眼科学の『目』も著した。医学書『医学宝典』も名声を得たが、著者が彼ではないとの説もある。
1261年ごろから、オットボノ・フィエスキ枢機卿(のちの教皇ハドリアヌス5世)に随行し、リスボンなどで聖職に就いた。テオバルド・ヴィスコンティと知り合ったとされ、1271年に彼がグレゴリウス10世として教皇になると、1272年にその侍医に任じられた。学者として名声があったため、1273年春にブラガ大司教となったが、直後に枢機卿に任命され、1274年の第2リヨン公会議にも出席している。
ハドリアヌス5世が1276年8月に亡くなると、ヴィテルボでのコンクラーヴェは長引く気配を見せ、騒動も起きたため、枢機卿団は急いで教皇を選び、彼が9月にヨハネス21世として選出された。前任者と同じくコンクラーヴェの規定の実施を一時中止し、新規定の制定を約束した。政治では、インノケンティウス5世の反神聖ローマ帝国政策を取り消し、シチリア王カルロ1世(シャルル・ダンジュー)には、ヴィテルボまで来て歓心を買おうとした末に忠誠を誓わせた。カスティーリャ王とフランス王がナバラをめぐって争った際は、教皇使節を送って講和を仲介した。ポルトガル王アフォンソ3世は、聖職者任命に干渉したとして破門した。1277年4月には、コンスタンティノープルで教会会議が行われ、東ローマ皇帝ミカエル8世が第2リヨン公会議の合意を批准した。彼自身は学者肌で政治への関心が薄く、政策の詳細はオルシーニ枢機卿(のちの教皇ニコラウス3世)に任せたという。
高齢で即位したが健康に自信があると述べ、研究を続けるために小さな研究部屋を作らせた。急造だったため、1277年5月に天井が崩れて下敷きになり、6日後の5月20日に亡くなった。在位は約8か月だった。
同じ年に亡くなった人物
- ステファン・ウロシュ1世 (セルビア王) (1277年没)
- ヤフヤー・ブン・シャラフ・ナワウィー (1277年没)
- バイバルス (1277年没)
- アブー=アブドゥッラー・ムハンマド・アル=ムスタンスィル (1277年没)
- コンスタンティン・ティフ (1277年没)
同じ地域に関係する人物
- ガエターノ・ベディーニ (1864年没)
- エンニオ・ファンタスティキーニ (2018年没)
- クレメンス4世 (ローマ教皇) (1268年没)
- ジル・デ・アルボルノス (1367年没)
- ニコラウス3世 (ローマ教皇) (1280年没)