伝記
コンスタンティン・ティフは、スコピエの貴族ティフの子として生まれた。ソフィアまたはスコピエの周辺に所領を持つ裕福なブルガリアの貴族で、セルビア王ステファン・ネマニャを祖父とし、セルビア王ステファン・ウロシュ1世は伯父にあたるとされる。ネマニャとの血縁が母方なのか父方なのかは、はっきりしない。
1256年末か1257年初めに、ブルガリア皇帝ミハイル2世アセンが従兄弟のカリマンに殺され、まもなくカリマン2世も死んで、アセン家の男系は絶えた。マチョー公ロスチスラフ・ミハイロヴィチと、ミハイルの義弟にあたる貴族ミツォ・アセンがそれぞれ帝位を主張した。ロスチスラフはヴィディンを押さえ、ミツォはブルガリア南東部を支配したが、どちらもタルノヴォを握る貴族たちの支持は得られなかった。貴族たちはコンスタンティンに帝位を申し出て、彼はこれを受けた。コンスタンティンは最初の妻と離縁し、1258年にニカイア皇帝テオドロス2世と、ブルガリアのエレナ(イヴァン・アセン2世の娘)の間に生まれた娘、イレネ・ドゥカイナ・ラスカリナと結婚した。アセン家の血を引く妃を得て立場を固め、以後はコンスタンティン・アセンと名乗った。
1259年にはロスチスラフがハンガリーの援助を受けてブルガリアに侵入した。翌1260年、ロスチスラフが岳父ベーラ4世のボヘミア遠征に加わっているすきに、コンスタンティンはヴィディンを取り戻し、セヴェリンにも軍を送って、短い期間ここを支配した。この侵攻に怒ったベーラ4世は、1261年にボヘミアとの和約を結ぶとすぐ、王子イシュトヴァーンの率いる軍をブルガリアに送った。ハンガリー軍はセヴェリンを奪い返し、ヴィディンなどを一時占領した。同じ1261年、コンスタンティンの軍はミツォ・アセンに決定的な勝利を収め、敗れたミツォは東ローマ皇帝ミカエル8世のもとへ逃れた。
同じ年、ニカイア皇帝ヨハネス4世がミカエル8世に廃位された。ヨハネスの姉妹にあたるイレネは、弟が廃位されて盲目にされたことへの復讐を望み、夫を説いた。コンスタンティンはミカエル8世と敵対した。1264年にジョチ・ウルスの軍が東ローマ領に侵入すると、ブルガリア軍も加わったが、国威を高めるほどの成果はなかった。1260年代の半ばから後半にかけては、ハンガリーとの戦いでも敗れ、タルノヴォを略奪されたともいわれる。1268年にイレネが亡くなると、翌1269年に東ローマとの関係の改善をはかって、ミカエル8世の姪マリアを娶った。ところが、持参金として約束されたアンギアロスとメセンブリアの引き渡しをめぐって両国の仲は悪化した。ミカエル8世は庶出の娘エウフロシニをジョチ・ウルスの有力者ノガイに嫁がせ、1274年、ノガイの軍はブルガリアで略奪を行った。ブルガリア軍は撤退し、両都市の請求権は放棄された。同じ年、ミカエル8世が教会合同を承諾したことでも関係は悪化した。マリアとその母は合同に反対だった。
治世の末期、コンスタンティンは落馬、あるいは傷がもとで体の一部が麻痺し、原因不明の病にも苦しんだ。そのため政務はマリアが代わって執り、生まれたばかりの子ミハイルが共同統治者に戴冠された。1276年には、マリアの指示でヴィディンで皇帝を名乗っていたヤコブ・スヴェトスラフが毒殺された。軍費を費やした末の敗戦、モンゴル軍の侵入、経済の不安は農民を苦しめ、1277年、農民イヴァイロの率いる蜂起が起こった。コンスタンティンは鎮圧に向かい、脚に障害を負っていたため馬車に乗って指揮を執ったが、大敗して捕らえられ、殺害された。
同じ年に亡くなった人物
- バイバルス (1277年没)
- アブー=アブドゥッラー・ムハンマド・アル=ムスタンスィル (1277年没)
- ヤフヤー・ブン・シャラフ・ナワウィー (1277年没)
- 陳太宗 (1277年没)
- ヨハネス21世 (ローマ教皇) (1277年没)
同じ地域に関係する人物
- エレナ・ブガルスカ (1374年没)
- ボードゥアン1世 (ラテン皇帝) (1205年没)
- スミレツ (1298年没)
- チャカ (ブルガリア皇帝) (1300年没)
- サワ (セルビア大主教) (1236年没)