伝記
プトレマイオス12世は、古代エジプトのプトレマイオス朝のファラオであり、紀元前117年ごろに生まれ、紀元前51年に没した。在位は紀元前80年から紀元前58年までと、紀元前55年から紀元前51年までの二度に分かれる。ディオニュソス祭でフルートを奏でることを好んだことから、笛吹き王を意味するアウレテスの名で知られる。その家系は、アレクサンドロス大王の仲間で将軍だったマケドニア人の初代プトレマイオス1世にさかのぼる。父はプトレマイオス9世で、妻はクレオパトラ5世とされ、子にはベレニケ4世、クレオパトラ7世、アルシノエ4世、プトレマイオス13世、プトレマイオス14世らがいる。
出自には不確かな点が多い。母の身元ははっきりせず、キケロなど古代の史料は彼を庶子と呼び、ポンペイウス・トログスは私生児と記した。母を愛妾とする説のほか、父の最初の妻クレオパトラ4世が母で、共同統治者でなかったために庶子扱いされたとする説もあり、後者なら生年は紀元前117年ごろになる。父は紀元前109年ごろから彼を公の場に出し始め、この年には彼がアレクサンドロスと歴代プトレマイオス王の神官を務め、キュレネでは彼を称える祭りも設けられたという。しかし父と祖母との関係は悪化し、紀元前107年に父が祖母クレオパトラ3世によって追われてアレクサンドリアを逃れ、キプロスへ向かうと、幼い彼は弟のキプロスのプトレマイオスとともに、紀元前103年にコス島へ送られて守られた。二人は紀元前88年ごろ、第一次ミトリダテス戦争の勃発のさなかにポントス王ミトリダテス6世に捕らえられたらしい。
紀元前80年、従兄弟のプトレマイオス11世がアレクサンドリア市民の反乱で殺害されると、ポントスから呼び戻されてファラオに推され、弟はキプロス王とされた。前王の従兄弟にあたるが、王家では傍流と見なされ、権力基盤は弱かった。遊楽にふけってローマの圧力や内政の混乱を顧みなかったとして揶揄されたが、一方でローマへの贈賄工作や貢納を重ねて地位の安定を図り、その負担はエジプトの民への増税となって不満を高めた。叔父のプトレマイオス10世が、後継者が絶えればエジプトをローマに遺すと定めていたため、併合を避けようとローマとの同盟も築いた。
紀元前58年、ローマがキプロスを併合し、弟が自害すると、弟を見殺しにしたと批判されるなど、諸政策への不満が高まってエジプト国内で反乱が起こり、彼は退位してローマへ亡命した。エジプトでは娘のベレニケ4世が王位に就き、共同統治者に選ばれた妻クレオパトラ5世と長女クレオパトラ6世は短期間で死亡し、ベレニケによる暗殺が疑われている。紀元前55年、ポンペイウスやアウルス・ガビニウスらローマの支援を受けて復位し、ベレニケ4世の軍勢を破って捕らえ、処刑した。晩年にはクレオパトラ7世を摂政に任じたとされ、紀元前51年に没すると、言い遺したとおり、娘のクレオパトラ7世と息子のプトレマイオス13世が共同でファラオに就いた。
彼は王家の直系でなく、反対勢力が多かったため、ローマの支援に頼らざるを得なかった。それでも娘ベレニケ4世による王国の乗っ取りを阻んだ点は、評価されている。
同じ年に亡くなった人物
- マルクス・アエミリウス・スカウルス (紀元前51)
- ポセイドニオス (紀元前51年没)
- Marcus Atius Balbus (紀元前51)
同じ地域に関係する人物
- ベレニケ4世 (紀元前55年没)
- クレオメネス3世 (紀元前210年代没)
- シェヌーダ3世 (コプト教会アレクサンドリア総主教) (2012年没)
- Ibrahim Shams (2001年没)
- アレクサンドリアのヘルメイアス (450年没)