伝記
陸秀夫は、南宋の末期に仕えた重臣である。字は君実。1237年(1236年とも)に、楚州塩城県(現在の江蘇省塩城市建湖県)に生まれた。のちに文天祥、張世傑とともに南宋の三忠臣(亡宋の三傑)の1人に数えられる。科挙に及第して進士となったのは、1260年とも、文天祥と同じ1256年ともいわれる。その後は礼部の侍郎となった。
1276年1月18日、元のバヤンが率いる軍が、南宋の都臨安に迫った。陸秀夫は和睦の交渉にあたって国難を救おうとしたが、うまくいかず、いったんは降伏させられたのち釈放されたと伝わる。同じ1月、臨安は戦わずに開城し、5歳の恭帝は元に降った。しかし、宋王朝の滅亡を受け入れられなかった陸秀夫は、陳宜中、張世傑、楊妃らとともに、先帝度宗の遺児である7歳の趙昰と4歳の趙昺を連れ出して、臨安を脱出した。一行は南へ逃れて、張世傑と力を合わせ、亡命政権を打ち立てた。同じ年、福州で趙昰が即位して端宗となり、景炎(明るい炎の意)の元号を用いた。端宗は陸秀夫を枢密院の軍事顧問に任じ、元に対する抵抗を続けさせた。
ところが亡命政権は内部が安定せず、1278年には皇帝として擁立した端宗が病死するという非常事態が起こった。そこで陸秀夫は張世傑とともに、端宗の幼い弟の趙昺を新たな皇帝に立てた。楊太后が御簾の後ろで朝廷を取り仕切り、陸秀夫は左丞相となって張世傑とともに政治を行った。
1279年、張弘範の率いる元軍が崖山の宋軍に大規模な海からの攻撃を仕掛けた。3月19日の崖山の戦いで、宋の軍勢はすべて壊滅した。伝えられるところでは、7歳の趙昺は海戦の結果を見て衝撃を受け、軍勢の乱れを軽くとがめて、攻撃をそろえて一つにまとまって戦うべきだったと語ったという。陸秀夫は敵に捕らえられることを望まず、自分の妻子を死なせたともいい、若い妻に自殺を命じたともいう。そのうえで、幼い皇帝に印を渡し、その身を抱きかかえて、崖から海に身を投げた。2人はともに死んだ。これを見た皇妃や宮女、大臣や高官、その妻子らも次々に海へ身を投じ、その後、数百とも数万ともいわれる遺体が海に浮かんだという。こうして宋は滅び、元の時代が始まった。崖山を生き延びて抵抗を続けようとした張世傑も、まもなく船の難破で死んだ。南宋最後の抵抗は、これで終わった。
日本の壇ノ浦の戦いで平氏が滅んだときの二位尼と安徳天皇にも似た、陸秀夫と幼帝の悲劇的な最期は、人々に哀惜の念を与え続けているといわれる。古くから伝わる箏曲に「崖山哀」という曲があるほどである。陸秀夫の子孫は各地を流れ歩いたのち、広東省従化市の村に落ち着いたという。広東省江門市には三忠臣を祀る祠があり、台湾の新北市双渓区にも三人の英雄を祀る廟がある。1868年に清の同治帝の命で建てられた三忠廟で、地域の信仰の中心になっている。
同じ年に亡くなった人物
- アルブレヒト1世 (ブラウンシュヴァイク公) (1279年没)
- Robert Kilwardby (1279年)
- アフォンソ3世 (ポルトガル王) (1279年没)
- ボレスワフ5世 (1279年没)
- 祥興帝 (1279年没)