伝記
アネシュカ・チェスカーは、中世ボヘミア王国の王女で、のちにカトリック教会の聖人となった修道女である。ボヘミアのアグネス、プラハのアグネスとも呼ばれる。1211年1月20日にプラハで生まれた。父はボヘミア王オタカル1世、母はハンガリー王ベーラ3世の娘コンスタンツィエで、母方の従姉に、のちに列聖されたハンガリー王女エルジェーベトがいる。
3歳のとき、シレジア公ヘンリク1世の妻ヤドヴィガに預けられた。ヤドヴィガは後に列聖された人物で、トシェブニツァに自分で創設したシトー会の修道院にアネシュカを入れ、教育を受けさせた。6歳でプラハに戻ると、プレモントレ会の女子修道参事会に預けられて学びを続けた。8歳のころ、神聖ローマ皇帝兼シチリア王フリードリヒ2世の長男ハインリヒ7世との婚約が決まった。ハインリヒは当時10歳で、ドイツ王に戴冠したばかりだった。習わしでは、婚約者の宮廷で育つはずだったが、アネシュカはオーストリア公レオポルト6世の宮廷に送られた。ところがレオポルト6世は、自分の娘マルガレーテをハインリヒと結婚させるつもりで、6年続いた婚約は1225年に破棄された。怒ったオタカル1世は、翌1226年にオーストリアとの戦争を起こした。
次にイングランド王ヘンリー3世との縁談が持ち上がったが、フリードリヒ2世の介入で解消された。3度目に寡夫となったフリードリヒ2世が、自分と結婚するよう求めてきたからである。アネシュカはこれを拒み、政略結婚にはもう関わらないと決めて、教皇グレゴリウス9世に修道女になる意志を伝えた。教皇の助言で、生涯を宗教に捧げる決意を固めたという。皇帝は「もし私を捨てて死すべき人間のもとに行ったのなら、剣で復讐しただろう。だが天の王を選んだのだから、怒ることはできない」と語ったと伝えられる。1232年、兄のヴァーツラフ1世からプラハの土地を譲られ、そこに病院を建てた。1232年から翌年にかけて、病院の隣にゴシック様式のフランシスコ会修道院も築いた。兄の招きでボヘミアに来たばかりのフランシスコ会士のためで、ここは、アルプス以北で最初のクララ会の共同体となった。修道士を通じてアッシジのキアラのことを知ったアネシュカは、20年以上にわたる文通を始め、キアラは会ったことのないアネシュカに母のような情を注いだ。アネシュカ自身も1234年に修道女となり、同じ年か翌年に修道院長となった。1235年にはボヘミアにあったドイツ騎士団の財産を病院に与えた。修道院長になってからも、ハンセン病の患者や貧しい人々のために食事をつくり、衣服を繕った。
病院で働く在俗の人々は、1238年にアネシュカによって新たな騎士修道会に組織され、看護を主な務めとする紅星十字騎士団となった。騎士団が教皇インノケンティウス4世の許可を得て創設されたのは1254年とされる。アネシュカは生前から、幻視や病気の癒しで知られ、ヴァーツラフ王がオーストリア軍に勝つと予言したという話もある。1282年に71歳で亡くなり、命日は3月2日とも6日ともいわれる。
聖アネシュカ修道院は、15世紀のフス戦争で荒廃し、1782年に廃止された。1960年代に復元され、いまはプラハ国立美術館の別館となっている。列福は、教会とフランシスコ会の対立で長く実現しなかったが、1874年に教皇ピウス9世が行い、1989年11月12日に教皇ヨハネ・パウロ2世が列聖した。列聖は、9日にベルリンの壁が崩壊し、16日にビロード革命が起こるという、東欧革命のさなかのことだった。かつてチェコの50コルナ紙幣にも肖像が使われた。
同じ年に亡くなった人物
- ヴワディスワフ・オポルスキ (1282年没)
- アバカ (1282年没)
- ブカ・テムル (1282年)
- トライデニス (1282年没)
- サウェリン・アプ・グリフィズ (1282年没)
同じ地域に関係する人物
- ルドヴィーク・スヴォボダ (1979年没)
- Ladislav Klima (1928年没)
- ラディスラウス・ポストゥムス (1457年没)
- フランティシェク・クサヴェル・ブリクシ (1771年没)
- Vladimir Syrovatka (1973年没)