伝記
テグデルは、イルハン朝の第3代君主である。初代君主フレグの7男で、母はフレグの第3正妃だったコンギラト部族出身のクトゥイ・ハトゥン、同母の兄に4男のテクシンがいる。幼いころにキリスト教の洗礼を受けてニコラウスという洗礼名をつけられたが、成人する年齢になると、イスラム教徒とともに育てられたため、イスラム教を信じるようになった。フレグ家の王族でイスラム教徒になったことが確かめられる最初の人物とされる。アフマド・テグデルやアフマド・ハンとも呼ばれる。
1282年にアバカ・ハンが亡くなると、マラーガの町に居合わせた妃や親族の王侯、将軍たちが、葬礼と後継者を選ぶ会議を開いた。アバカの息子アルグンは、途中で父の死を知ってマラーガへ向かい、王侯たちは慣例に従って彼に杯を献じた。やがてアバカの弟であるテグデルがグルジア王国から到着した。葬礼のあと、会議は三つに分かれ、アルグンを推す者、アバカの弟モンケ・ティムールを推す者、テグデルを推す者がいた。モンケ・ティムールがまもなく死去すると、その支持者もアルグン側についた。しかしチンギス・カンの掟では、ハン位を継ぐのは王室の年長者であるべきで、テグデルが優勢だった。アルグンの重臣シーシー・バクシーは、テグデルが多くの将軍に支持されているのを見て、アルグンに自分から譲るよう勧め、アルグンもこれを承諾した。こうして1282年5月6日、テグデルは満場一致でハンに推戴された。
6月21日に王侯と将軍たちが忠誠を誓い、テグデルは即位した。すでにイスラム教を信じていたので、スルターン・アフマドと名乗った。最初の処置は自分がイスラム教徒であると表明することで、バグダードの官庁に勅書を送り、マムルーク朝のスルターン、カラーウーンにも書を送った。宰相シャムスッディーン・ジュヴァイニーを引き続き財務庁にとどめ、スウンジャクを副官に選んだ。ジュヴァイニーを陥れようとしていたマジュド・アル=ムルクは死刑と決まり、8月1日に牢獄から出されるとすぐ群衆に殺された。同じ月の25日には、エジプトへ使節を送ることを決めた。アフマドはイスラム教への熱意が強く、ジュヴァイニーやシャイフのアブド・アル=ラフマーンの講義を聞くために二人の家で一日の大半を過ごし、政務にはほとんど携わらなかったという。偶像院やキリスト教会堂をイスラム寺院に変えるよう命じた。
一方、アルグンはバグダードで冬営しながら、将軍タガチャルらを味方につけていた。1283年3月6日、バグダード長官アラーウッディーン・ジュヴァイニーは、アルグンに財産を没収されたことを聞き、脳卒中で倒れて亡くなった。アフマドはアルグンの謀反の動きを知り、軍の一部をディヤルバクルに置いた。春になると、アルグンはイラークとファールスのハン領地を求めたが、アフマドはまずクリルタイに出席するよう答えた。1283年夏、アフマドはアブド・アル=ラフマーンをエジプトへ送り、マムルーク朝との和約を結ばせようとした。1284年1月18日、アフマドは、アルグンと親しくしていた王侯コンクルタイが自分を捕らえようと計画していると察し、将軍アリナクに命じて背骨を折って殺させた。アルグン側の将校たちもあいついで捕らえられ、ガイハトゥらは逃れてホラーサーンへ走った。テグデルは1284年8月10日に亡くなり、この日が在位の終わりでもある。
同じ年に亡くなった人物
- ダキアのボエティウス (1284年)
- アルフォンソ10世 (カスティーリャ王) (1284年没)
- ユーグ3世 (1284年)
- アルフォンソ (1284年)
- アレイド・ファン・ホラント (1284年)
同じ地域に関係する人物
- フレグ (1265年没)
- マフムード・シャベスタリー (1320年没)
- クトゥブッディーン・シーラーズィー (1311年没)
- アスィールッディーン・アブハリー (1260年代没)
- Al-Baydawi (1286年没)