HISTORICAL PERSON · 1260年代没

アスィールッディーン・アブハリー

13世紀のムスリムの哲学者・数学者・天文学者で、モースルを拠点とした。哲学要綱『叡智への導き』は14〜15世紀にペルシアやインドで教科書として広く読まれ、論理学の手引書『入門』も知られる。

生涯
1260年代没
死亡地
イラン共和国(東アーザルバーイジャーン州 / シャベスタル)
出生地
イラン共和国(アブハル)
出典
世界地図
イラン共和国(東アーザルバーイジャーン州)

伝記

アスィールッディーン・ムファッダル・ブン・ウマル・アブハリーは、13世紀のイスラーム世界で活動した哲学者、数学者、天文学者である。占星術師としても知られ、「ムナッジム(占星術者)」の呼び名でも呼ばれた。哲学、天文学、数学の著作を著し、多くの優れた学者を教え、あるいは交流を持ったことで名が知られている。生涯についてはわからないことが多く、生まれた年も伝わらない。出身は、名に付くニスバが示すように、カズウィーンとザンジャーンの間にある小さな町アブハルであろうと考えられている。一方で、モースルの出身とする説もあり、これはモースルの学者に学んだことからの推測であるが、古い伝記作者の誰もモースルを生地とはしていないため、退けられている。

若いころのアブハリーは、神学者ファフルッディーン・ラーズィーに学んだ。場所はおそらくガズニーかヘラートの町である。哲学と論理学のほか、正統的なスンナ派の神学、法学、クルアーン注釈も学んだと考えられる。1228年、モンゴルがホラズム帝国を攻め取ると、彼はアルビールへ逃れ、さらにダマスカスへ移ってムヒーッディーン・ムハンマド・ブン・サイード・ブン・ナディーに師事した。その後はモースルへ行き、カマールッディーン・マウスィリーの指導のもとで、数学、とくに天文学を学んだ。

モースルに拠点を置いた彼は、学者として名声を得た。シリアの学者が解けなかった数学上の難問を、アイユーブ朝のスルターンのアル=カーミルがアブハリーに照会した記録が残っており、アル=カーミルの治世にはすでにモースルでその名が知られていたことがわかる。学問のためにホラーサーンやバグダード、アルビールなどを旅したと考えられている。ビザンティウムやスィヴァス、ハマー、ダマスカスにいたことがあるという説もある。亡くなったのは1262年から1265年までのどこかで、多くの伝えでは、フレグ・ハンの治世にモースルで没したとされる。ただし最期の地をアーザルバーイジャーンとする説もある。アブハリーの弟子には、「論理学者」と呼ばれたナジュムッディーン・カーティビー、伝記作者のイブン・ハッリカーン、宇宙誌作者のザカリーヤー・カズウィーニーらがいたとされる。博学者のナスィールッディーン・トゥースィーは、彼と議論を交わした学者に数えられる。

アブハリーはおよそ20冊の著作を残し、生前は数学者、また天文学書の著者として知られた。とりわけ有名で後世に影響を与えたのは2冊の哲学書である。『叡智への導き』は、論理学、自然哲学、形而上学の3部からなる哲学要綱で、後期逍遥学派の代表的な書の一つとされる。14世紀から15世紀にかけてペルシアやインドで教科書として広く読まれ、多くの注釈が書かれた。『入門』は『アスィールッディーンの論考』とも題された論理学の手引書で、学問を始める者のために、ポルフュリオスの『入門』をアラビア語に翻案したものとされる。膨大な数の写本や注釈が生まれ、1625年にはフランシスコ会修道士によって初めてのラテン語訳がローマで出版された。アルジェリアの著述家がこれを韻文にした『美しき梯子』という作品もある。

天文学ではアストロラーベについての論考や、天文学の要約書を著した。『天文学についての論考』はプトレマイオスの理論を要約したもので、『天文学梗概』は、ジャービル・ブン・アフラフなど先達の成果を要約したものといわれ、豊富な図を用いている。数学ではユークリッド原論の「修正」を扱った著作があり、その中で平行線公準の証明に挑んだが、その証明は後代の学者から批判された。

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