HISTORICAL PERSON · 紀元前48年没

グナエウス・ポンペイウス

スッラからマグヌスと称された、ストラボの子。25歳で凱旋式を挙げ、ヒスパニアへも遠征した。カエサル、クラッススと第一回三頭政治を行ったが、ローマ内戦でカエサルに敗れ、最終的に暗殺された。

生涯
紀元前48年没
死亡地
エジプト・アラブ共和国(ポートサイド県 / ペルシウム)
出生地
イタリア共和国(ピケヌム)
出典
世界地図
エジプト・アラブ共和国(ポートサイド県)

伝記

グナエウス・ポンペイウス・マグヌスは、紀元前106年9月29日に生まれ、紀元前48年9月28日に没した共和政ローマ後期の政務官である。スッラからマグヌス、すなわち「偉大な」と称され、カエサル、クラッススとともに第一回三頭政治を行ったが、ローマ内戦でカエサルに敗れ、最終的に暗殺された。父は紀元前89年の執政官グナエウス・ポンペイウス・ストラボで、同盟市戦争の北部戦線でアスクルムの戦いに勝ち、凱旋式を挙げた人物である。プルタルコスによれば、人々に憎まれた父と違い、ポンペイウスは生まれたときから人気があり、アレクサンドロスと呼ばれたという。紀元前87年、キンナがマリウスを呼び戻してローマを占領した際、父はオクタウィウス側についてコッリナ門で対峙し、ポンペイウス自身も軍の混乱を立て直したと伝わる。やがて父は雷に打たれて死んだとも言われる。翌年、父はアスクルムの戦利品の横領で訴追されたが弁護を受けて無罪となり、ポンペイウスは裁判を主宰した人物の娘と結婚した。

紀元前83年、ミトリダテス戦争に勝ったスッラが軍を率いてギリシアから戻ると、ポンペイウスはピケヌムのキンナ派有力者を追放し、自費で募った3個軍団を連れて合流した。スッラは彼を歓迎し、独裁官となった後は、つなぎ止めるために妻と離婚させ、継娘アエミリアとの結婚を強いたが、ポンペイウスは従わざるを得なかった。スッラの命でシキリアとアフリカへ向かい、紀元前82年のうちにシキリアを手中に収め、カルボら多くのポプラレスを捕らえて殺害した。紀元前81年にはヌミディアへ逃れた敵将を討った。この功績で「マグヌス」と評され、名乗ったのはスッラの死後だったという。強く求めて認めさせた凱旋式は、25歳でスキピオ・アフリカヌスを上回る最年少記録となった。紀元前78年のスッラの死に際しては、国葬を主張して認められた。

紀元前77年にレピドゥスが反スッラを掲げて挙兵すると、討伐に赴いて敗死させた。その残党が合流したセルトリウス軍がヒスパニアで勢いを増すと、メテッルス・ピウスに代わる指揮に名乗り出た。元老院は29歳で高位の政務官の経験がない彼に指揮権を与えることをためらったが、軍団の解散を拒んだことなどもあって決議した。ヒスパニア到着は紀元前76年で、ゲリラ戦に苦しみながらも、紀元前72年にセルトリウスが部下に殺されて反乱は鎮まった。ヒスパニアでの公平な施策は、住民の高い支持を得た。紀元前71年、ルカニアでスパルタクスを破ったクラッススをよそに、北へ逃れた反乱軍の残党を討ち、「この戦いを終わらせたのは私である」と元老院へ報告した。この報告で武勲を横取りされたクラッススは激しい敵意を抱いた。それでも、紀元前70年には、35歳でクラッススとともに執政官に選ばれた。

紀元前67年にはガビニウス法によって、20個軍団と軍船500隻を率いる3年間の権限を与えられ、地中海の海賊の討伐にあたった。海域を13に分けて軍団長を置き、自らは60隻の遊撃部隊を率いて、西部をおよそ40日、東部のキリキア沿岸を含めて49日間で制圧し、3か月足らずで全域の海賊を掃討したという。降伏した2万人以上を沿岸から離れた地に植民させ、その一つキリキアのソリは「ポンペイオポリス」と呼ばれた。キケロはその周到さを称えた。紀元前66年にはマニリウス法でミトリダテス6世征討軍の指揮権を与えられ、ルクッルスと交代し、東方でミトリダテス6世の軍を撃破した。のちにローマ内戦でカエサルに敗れ、紀元前48年に暗殺された。

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