伝記
ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスは、共和政ローマの政治家・軍人で、紀元前54年の執政官である。紀元前98年頃の生まれとされ、紀元前48年8月に没した。平民系の名門ドミティウス氏の出で、父は大神祇官を務めたグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスである。次男で、兄は紀元前81年にポンペイウスとの戦いで敗死した。小カトーの姉ポルキアを妻に迎え、カト同様、カエサルにとって不倶戴天の政敵の1人となった。元老院の保守派である閥族派に属し、生涯その立場を守った。
紀元前70年にキケロがウェッレス事件の証人として名を挙げたのが、記録に現れる最初である。紀元前66年に財務官となり、ポンペイウスに東方での指揮権を与える法案に強く反対した。紀元前61年には上級按察官となり、ヌミディアの獅子を数百頭も出す見世物を催した。あまりに長く続いたため、観客が食事のために中座せざるをえなくなり、この中休みがのちに名を得たという。紀元前58年に法務官となると、前年の執政官カエサルが鳥占いと法を犯したのではないかと疑い、1年間の行動を調べて報告書を出した。その結果、カエサル配下の財務官が告発された。
紀元前56年、カトの薦めもあって翌年の執政官選挙に立候補したアヘノバルブスは、執政官になればカエサルから軍を取り上げると公言した。これを恐れたカエサルの主導でルッカ会談が開かれ、ポンペイウスとクラッススが翌年の執政官に就くことが内約された。選挙当日、アヘノバルブスは力ずくでカンプス・マルティウスから追い出され、落選し、カエサルのガリア総督の任期は5年延長された。しかし紀元前54年に三頭政治の反対を押し切って執政官に当選し、同僚はアッピウス・クラウディウス・プルケルだった。在任中はカエサルやポンペイウスに対抗する政策を進められなかったが、カエサルとポンペイウスの友好が薄れると、次第にポンペイウスに近づいた。紀元前52年のクロディウス殺害をめぐる裁判を取り仕切って頭角を現し、紀元前50年には神官の欠員に立候補してアントニウスに敗れたが、翌年からカエサルの後任のガリア総督に就くことが決まった。カエサルと元老院の妥協にも、カトやレントゥルス・クルスとともに反対し、カエサルに対する元老院最終決議にはもっとも積極的に賛成した1人であった。
紀元前49年1月にカエサルがルビコン川を越えて内戦が始まると、アヘノバルブスは元老院派として、約20個の歩兵隊を率いてコルフィニウムでカエサル軍の迎撃を図った。しかしポンペイウスの救援が得られず、自軍の兵に迫られて降伏した。兵はカエサル軍に移り、カエサルは彼を無傷で去らせたが、その寛大さは予想外のものだったという。彼のカエサルへの感情は変わらなかった。次にマッシリアに赴き、住民に総督に任じられて籠城し、激しく戦ったが、陣頭に立ったデキムス・ブルトゥスとの海戦に敗れた。市が降伏する前に脱出し、ポンペイウスのいるギリシアへ向かった。
デュッラキウムの戦いで元老院派が勝利すると、カエサル軍の追討を主張した。持久戦を唱えるポンペイウスを「アガメムノン」「王の中の王」と呼んで批判し、ポンペイウスも決戦を決意した。決戦を前に、元老院派は勝利気分に浸り、アヘノバルブスはメテッルス・スキピオらと、最高神祇官の後任をめぐって言い争ったとされる。8月9日のファルサルスの戦いでは一軍を率いたが敗れ、逃亡中にカエサル軍の騎兵に討ち取られた。キケロの『第二のフィリッピカ』では、アントニウスが手を下したとされる。息子のグナエウスはカエサルに降伏し、のちにローマへ帰還した。
同じ年に亡くなった人物
- マルクス・カルプルニウス・ビブルス (紀元前48年没)
- 宣帝 (漢) (紀元前48年没)
- グナエウス・ポンペイウス (紀元前48年没)
- Alexander of Judaea (紀元前48)
- ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・クルス (紀元前48年没)
同じ地域に関係する人物
- ヒュッカラのライス (紀元前340年没)
- Cineas (紀元前300)
- ピリンナ (紀元前400)
- ニキフォロス2世ドゥカス・オルシーニ (1359年没)
- ゴルギアス (紀元前376年没)