伝記
ガイウス・ウィビウス・パンサ・カエトロニアヌスは、共和政末期ローマの政治家で、紀元前43年にアウルス・ヒルティウスとともに執政官を務めた人物である。生年は分かっておらず、父と祖父も同じくガイウスという名で、家の歴史はほとんど知られていないが、父はスッラに追放されたとされる。スッラの法は追放された者の息子の公職就任を禁じており、パンサもその対象になった可能性があるが、カエサルがその禁止を解いたことが、忠誠の一因だったかもしれない。ウィビア氏で政界に進んだ最初期の一人であり、最初に執政官に達した人物でもある新参者で、エトルリア系の、ペルージャ出身の家の子孫とされる。妻は、アントニウスの熱心な支持者カレヌスの娘フルフィアである。
経歴は、ガリア戦争でカエサルのもとで戦ったことに始まる。紀元前51年には護民官となり、マルクス・カエリウス・ルフスとともに拒否権を用いて、カエサルに敵対する貴族派の執政官マルクス・クラウディウス・マルケルスらに強く反対した。カエサルとポンペイウスの内戦ではカエサル派を積極的に支持したが、大きな役割は果たさなかった。紀元前49年から48年ごろに按察官、続いて法務官を務め、前47年にはビテュニア・ポントス属州の総督となった。前46年にローマへ戻ると、ヒルティウスとともにキケロのもとで弁論術を学んだ。前45年にはマルクス・ユニウス・ブルトゥスに代わって属州ガリア・キサルピナを治め、翌年ローマへ戻った。カエサルは彼をヒルティウスとともに翌年の執政官にあらかじめ指名しており、二人は鳥占官にもなった。
紀元前44年のカエサル暗殺後、パンサはしばらくカンパニアで情勢を見守り、同地にいたオクタウィアヌスとも接触を始めた。穏健で平和的な妥協を支持する人物とされ、ローマに戻るとカエサル派穏健派の指導者となり、共和政の回復を支える主な人物の一人となった。そのため同年末にかけて執政官マルクス・アントニウスと次第に対立したが、アントニウスを完全に滅ぼそうとはせず、新たな内戦にも踏み切る気がなかった。この点でキケロとは立場が異なった。妻の父カレヌスがアントニウスの支持者だったことも、その背景にあった。
紀元前43年、ヒルティウスとともに執政官となった。就任後の元老院の議論は4日間続き、パンサは義父カレヌスとキケロの間で議事を取りしきった。キケロは強く反対したものの、アントニウスのもとへ使節を送るというカレヌスの提案が採択された。一方でアントニウスは属州ガリア・キサルピナの掌握をねらい、総督デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスをムティナで包囲した。元老院は両執政官にデキムスの救援を命じ、ムティナ戦争が始まった。パンサはドラベッラを国家の敵とする動議を支持したが、カッシウスに東方で特別な権限を与えるというキケロの提案は退けた。
パンサは新兵の4個軍団を集め、3月20日にローマを出てムティナの救援に向かった。4月14日、元老院軍とアントニウス軍がフォルム・ガッロルムで激突し、続くムティナの戦いで元老院側は勝利した。しかしヒルティウスは戦死し、パンサも戦闘で負った傷がもとで数日後に亡くなった。二人の執政官を失った元老院側の軍勢はオクタウィアヌスが握ることになった。その後、逃れたアントニウスがガリアでレピドゥスと合流し、追撃したデキムス・ブルトゥスを破ると、オクタウィアヌスはアントニウス、レピドゥスと和解して第二回三頭政治を結成し、元老院に敵対した。パンサの死によって、共和派はカエサル派に対抗できる軍事力を事実上失ったとみることができる。
同じ年に亡くなった人物
- プブリウス・コルネリウス・ドラベッラ (紀元前44年の補充執政官) (紀元前43年没)
- ヘルウィウス・キンナ (紀元前43)
- クィントゥス・ペディウス (紀元前43年没)
- ガイウス・カッシウス・ロンギヌス (紀元前73年の執政官) (紀元前 43年(推定))
- クィントゥス・トゥッリウス・キケロ (紀元前43年没)
同じ地域に関係する人物
- レナータ・ヴィガノ (1976年没)
- フランチェスコ・グリフォ (1518年没)
- グレゴリオ・リッチ=クルバストロ (1925年没)
- チェーザレ・ペルディーサ (1998年没)
- マルコ・チマッティ (1982年没)