伝記
クィントゥス・ペディウスは、共和政ローマ末期の政治家・軍人である。平民の出で、ガイウス・ユリウス・カエサルの親族にあたり、紀元前43年に補充執政官を務めたが、同じ年のうちに世を去った。生年は紀元前88年以前と考えられている。父は同名で、母はカエサルの姉ユリアとされる。スエトニウスはユリアの孫としているが、世代の上で疑問が残るため、実際にはユリアの息子でカエサルの甥だったと考えられている。
ペディウスはガリア戦争にカエサルのレガトゥス(副官)として加わり、紀元前57年にはガリア・キサルピナで2個軍団を徴募した。ベルガエ人との戦いで敗北したあとは、ルキウス・アウルンクレイウス・コッタとともに騎兵部隊を指揮している。紀元前55年には按察官の選挙に出たが、カエサルの支援があったにもかかわらず落選した。
カエサルとグナエウス・ポンペイウスの内戦が始まると、カンパニアに赴き、カエサルとキケロの間の仲介を試みたらしい。キケロがアッティクスに宛てた手紙には、カエサルからペディウスに宛てた手紙が引用されており、ブルンディシウム包囲戦の様子が伝えられている。紀元前48年には法務官に就任し、ルカニアでポンペイウス側に立って蜂起したティトゥス・アンニウス・ミロを、1個軍団を率いて鎮圧して処刑した。その後は執政官代理として遠ヒスパニアの総督となった。ヒスパニアではポンペイウスの息子を中心にポンペイウス派が勢いを増したが、ペディウスはクィントゥス・ファビウス・マクシムスとともにカエサルの主力軍の到着を待ち、ムンダの戦いで勝利した。そしてローマに戻って凱旋式を行ったが、カッシウス・ディオによれば、単にカエサルの副官にすぎない者への授与であり、この栄誉は法に反するものだった。
紀元前44年にカエサルが暗殺されたあと、紀元前45年9月14日付の遺書により、ペディウスはカエサルの遺産の一部を受け継ぐことになっていた。しかしそれをオクタウィアヌスに譲り、その支援者となった。紀元前43年、執政官ヒルティウスとパンサがアントニウス軍との戦いで戦死すると、8月にオクタウィアヌスが軍をローマに向け、自身が補充執政官に就いた。ペディウスもその同僚の補充執政官となった。この職権でペディウスは、カエサルの暗殺者とその関係者を罰する「ペディウス法」を定め、欠席裁判のうちに有罪とされた者の財産は没収された。さらにアントニウスとレピドゥスに対する国家の敵の宣言を無効とした。
これをきっかけにアントニウスとレピドゥスはオクタウィアヌスと和解し、第二回三頭政治が始まった。オクタウィアヌスが北イタリアへ向かったあと、ペディウスはローマの留守を預かった。三頭政治の真意を知らなかったペディウスは、スッラの時代に反スッラ派9000人が殺害された例を思い、大量殺害を恐れて、国家の敵の名簿を17人に限って公表し、これが唯一の名簿だと宣言したとされる。しかし実際には2,000人が記載され、多くが殺害された。ペディウスはその直後に死んだ。アッピアノスによれば、虐殺の始まりを恐れる市民たちに一晩中触れ回って知らせ、そのため過労で亡くなったという。ペディウスはウァレリウス・メッサッラ家の女性ウァレリアと結婚しており、マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・コルウィヌスの姉妹にあたるこの妻との間に少なくとも1人の息子がいた。息子のクィントゥス・ペディウス・プブリコラは元老院議員となり、弁論で名を上げたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- セルウィウス・スルピキウス・ルフス (紀元前43年没)
- ガイウス・カッシウス・ロンギヌス (紀元前73年の執政官) (紀元前 43年(推定))
- プブリウス・コルネリウス・ドラベッラ (紀元前44年の補充執政官) (紀元前43年没)
- ヘルウィウス・キンナ (紀元前43)
- ガイウス・トレボニウス (紀元前43年没)
同じ地域に関係する人物
- グレゴリウス5世 (ローマ教皇) (999年没)
- ピエトロ・ベンボ (1547年没)
- ジョージ・ペル (2023年没)
- ジョヴァンニ・ジローラモ・カプスペルガー (1651年没)
- タッデオ・ツッカリ (1566年没)