伝記
ガイウス・トレボニウスは、共和政ローマの軍人・政治家である。紀元前92年ごろの生まれとされ、前43年に没した。ガリア戦争とローマ内戦ではカエサルの配下にあったが、のちにカエサル暗殺に加わった。家は騎士階級に属し、父は高位の政務官を経験していなかったため、新人(ノウス・ホモ)とされた。紀元前60年ごろに財務官を務め、その任期中、クロディウスが平民の家に養子に入るのを阻もうとしたが、それは三頭政治家たちの意向に反していた。前55年に平民出身者として護民官に選ばれたときには、すでに三頭政治家たちの味方になっていた。この年、トレボニウスはトレボニア法を民会に提案した。執政官のクラッススとポンペイウスに、それぞれシリアと二つのヒスパニアを属州として与え、総督としての任期を5年とし、元老院に諮らず戦争と和平を決める権限も含めるという内容である。ポンペイウスの敵対者である小カトは反対して可決を遅らせようとし、トレボニウスはカトをフォルムから追い出し、さらに逮捕を命じた。しかし大勢の群衆がカトに従ったため、考えを改めて釈放を命じた。結局この法は可決された。
三頭政治家たちへの奉仕の報いとして、紀元前54年にカエサルの副官の一人となり、以後5年間ガリア戦争でカエサルとともに過ごした。その指揮はカエサル自身にも賞賛されたとされる。前54年にはブリタンニアへの第2次遠征に同行し、3個軍団を率いてカッシウェッラウヌスの連合した攻撃を破った。前53年にはエブロネス族と戦う特別な指揮権を受け、周辺を荒らす任務を負った。
紀元前49年からの内戦では、デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスとともにマッシリア(現在のマルセイユ)の攻略を担当し、トレボニウスが陸上の作戦を、デキムスが艦隊を指揮した。包囲は4月19日から9月6日まで続き、市はまず土塁などで封鎖された。7月初めに兵が城壁を越えると、マッシリア側は使者を送り、カエサルの到着まで攻撃を止めるよう求めた。トレボニウスはカエサルから市を強襲しないよう命じられていたので、これに応じたが、略奪を期待していた兵の反発を招いた。8月末にはマッシリア側の奇襲で攻城兵器を破壊されたが、トレボニウスは再び市の防備を弱めた。マッシリア側がまたカエサルを待つよう求めたとき、トレボニウスは今度は武器、市の財宝、船を引き渡させ、これで包囲は終わった。紀元前48年には首都法務官に選ばれ、カエサルの新しい債務法を実施する任務を与えられた。紀元前47年からは、小ポンペイウスなどヒスパニアに残る元老院派の討伐に向かったが、不首尾に終わった。
紀元前45年、騎兵長官を解任されて冷遇されていたアントニウスがナルボでカエサルと会談して関係を修復した際、トレボニウスはアントニウスにカエサル暗殺の計画を持ちかけたとされ、キケロは、アントニウスがこの計画に前向きだったと主張している。同年、補充執政官に選ばれた。紀元前44年3月15日のカエサル暗殺の際には、ポンペイウス劇場の外でアントニウスを引きつけておく役を果たした。
紀元前43年からアシア属州の総督となったが、ドラベッラに捕らえられて殺害された。2日間にわたる拷問の末に首を晒され、遺体は海に投げ捨てられたという。キケロは第11ピリッピカ演説で、第一次ポエニ戦争で捕虜となり拷問で殺されたと伝わるレグルスの例を出し、その悲惨な最期とドラベッラの残虐非道を強調している。
同じ年に亡くなった人物
- ガイウス・クラウディウス・マルケッルス・マヨル (紀元前 43年)
- クィントゥス・ペディウス (紀元前43年没)
- プブリウス・コルネリウス・ドラベッラ (紀元前44年の補充執政官) (紀元前43年没)
- セルウィウス・スルピキウス・ルフス (紀元前43年没)
- デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌス (紀元前43年没)
同じ地域に関係する人物
- スミルナのクリュソストモス (1922年没)
- アッタロス2世 (紀元前138年没)
- エクレム・アクルガル (2002年没)
- アッタロス3世 (紀元前133年没)
- オリバシウス (403年没)