伝記
キンガは、ハンガリー王女として生まれ、ポーランド王ボレスワフ5世の妃となった女性である。カトリック教会の聖人で、ポーランドとリトアニアの守護聖人とされる。クネグンダなどの名でも呼ばれ、アールパードハージ・キンガとも表記される。1224年3月5日、ハンガリー王ベーラ4世と王妃マリア・ラスカリナの長女としてエステルゴムに生まれた。聖エルジェーベトの姪にあたり、アンデクスの聖ヤドヴィガは大叔母である。妹にはマルギット、ヨランタがいる。
1239年、キンガは気の進まぬままボレスワフ5世と結婚した。若いころから一生を祈りと慈善にささげる決心をしており、独身でいるつもりだったからである。この結婚は、迫りつつあったモンゴルの脅威に備えて、クラクフとハンガリー王国を結ぶためのものだった。15世紀の著述家ドゥゴシュは、当時のキンガを、並外れて美しく徳のある15歳の娘と評している。結婚はしたものの、信仰の篤い二人は肉体的な純潔を守ると誓った。二人の結婚は、ポーランドの人々には誇りとされた。1241年3月、モンゴル軍はクラクフを襲って焼き、4月9日にはポーランド軍を破った。キンガとボレスワフは安全を求めてハンガリーへ逃れた。キンガはこの後のポーランドで、人々の信仰と民族としての自覚を保つうえで大きな役割を果たしたとされる。王妃である間、貧しい人々を訪ねたり、ハンセン病の患者を世話したりする慈善を行った。
ヴィエリチカの岩塩坑には、キンガにまつわる逸話が伝わる。ヴィエリチカでの岩塩採掘は遅くとも1044年には行われており、当時のポーランドは主にハンガリーから岩塩を輸入していた。婚約が決まったとき、キンガは婚約指輪をハンガリーのマラムレシュの岩塩坑に投げ込んだ。ポーランドへ嫁いで10年ほどたったころ、クラクフ郊外のヴィエリチカ村から、王室の女性のものに違いないりっぱな指輪が見つかったという知らせが届いた。確かめに行ったキンガは、それが自分の投げ捨てた指輪だと知って驚いた。ヴィエリチカにはハンガリーから輸入した岩塩の置き場があり、その山の中から指輪が出たのである。王室はこれを偶然と思わず、本格的に掘り進めたところ、途方もない規模の岩塩床が見つかった。1250年、ポーランド王国はこの岩塩床の採掘を王立の事業とし、大規模な投資で再編した。以後、王国は塩の輸出で莫大な利益をあげた。
1279年にボレスワフが亡くなると、キンガは持ち物をすべて売り、その金を貧しい人々に与えた。ドゥゴシュは、夫を葬ってまもなくクララ会の修道服をまとい、以前から望んでいたと告げたと書いている。国の政治からは一切身を引き、スタリ・ソンチ(サンデツ)の貧者クララ会の修道院にひとりで入った。余生は観想の祈りのなかで過ごし、かつてポーランドの王妃だった身分を話題にすることを誰にも許さなかった。1292年7月24日、68歳で亡くなった。
1690年、教皇アレクサンデル8世がキンガを列福し、1695年にはポーランドとリトアニアの守護聖人とされた。1999年6月16日、教皇ヨハネ・パウロ2世が列聖した。キンガは岩塩坑夫の守護聖人ともされ、ヴィエリチカ岩塩坑の地下101メートルには、キンガに捧げられた礼拝堂がある。礼拝堂はすべて塩を掘り抜いて造られ、塩でできたキンガの像もある。
同じ年に亡くなった人物
- Abraham Abulafia (1292年(推定))
- グリエルモ7世 (1292年没)
- クルタナガラ (1292年没)
- ギラウト・リキエル (1292年)
- ニコラウス4世 (ローマ教皇) (1292年没)
同じ地域に関係する人物
- ズビグニェフ (ポーランド公) (1112年没)
- カジミェシュ3世 (ポーランド王) (1370年没)
- ハンナ・ブレイディ (1944年没)
- フリデリク・ヤギェロンチク (1503年没)
- エリーザベト・フォン・ハプスブルク (1505年没)