伝記
アシュラフ・ハリールは、エジプトのバフリー・マムルーク朝のスルターンで、1290年から1293年まで在位した。第8代とも第9代ともされる。生年ははっきりせず、1262年ごろといわれる。父はスルターンのカラーウーンで、その次男として生まれ、母はクトクティヤという女性であった。3人の兄弟と2人の姉妹がいた。1284年にはカラーウーン配下のモンゴル系の将軍の娘アルドゥキンと結婚した。モンゴルの血筋はマムルークの間で名誉あるものとされ、カラーウーンの第二夫人が選んだ縁組だった。父は1280年に兄サーリフを後継者とし、条約にも名を並べたが、サーリフは1288年に没した。カラーウーンはハリールを共同のスルターンに任じ、将軍たちも忠誠を誓った。しかし、父はその任命を確かにする叙任書に署名しなかった。ハリールを後継にふさわしくないと見たためか、兄の即位を強く支持した副王タランターイとの不仲を警戒したためか、理由は分からない。
1290年、カラーウーンがアッコン遠征を計画すると、ハリールはスルターン代理としてカイロの留守を任された。まもなく父が後継者を決めずに急死すると、マムルークたちに擁立されて即位した。即位のとき、父の署名のない叙任書を投げ捨てて、マムルークたちを威圧した。父の埋葬は2か月のあいだ許さなかった。円滑な即位を図るためとも、父の墓廟の完成を待つためともいわれる。ハリールは父の約6,000人のマンスール軍団を、チェルケス系が多い自分の1,200人の軍団に組み入れ、手なずけようとした。即位後の行列でタランターイは暗殺をくわだてて失敗し、カイロの城塞に投獄されて、3日の拷問を受けたのち、11月に処刑された。その後は子飼いのチェルケス系マムルークを重用し、古参のマムルークは投獄や処刑にした。
1291年、ハリールは父の悲願であったアッコンの攻略に出た。テンプル騎士団総長ギヨーム・ド・ボージューに宛てた挑戦状には、キリスト教徒とフランク人への敵意が示されていた。シリア各地のマムルーク軍と、ハマーのアイユーブ家も加わった。包囲の最初の1週間は小競り合いだけだったが、攻城車を組み立てて守りの要の「呪われた塔」を攻め、坑道を掘って地下からも攻めた。5月4日にキプロス王アンリ2世が到着し、講和の使節を送ると、攻撃は一時止まった。だがハリールが無条件降伏を求めたため交渉は難航し、決裂した。5月18日にイスラーム軍は市内を占領し、同日アンリ2世は脱出した。陥落の直前、ボージューは戦死し、聖ヨハネ騎士団総長ジャン・ド・ヴィリエは重傷を負った。5月28日にテンプル騎士団の本部を占領し、アッコンは完全に陥落した。ハリールは生き残った守備兵と住民の処刑を命じ、略奪のあと城壁を壊させた。ティルス、シドン、ベイルート、トルトーザも8月までに降伏して、シリアの十字軍国家はすべて滅んだ。
同じ1291年、ヌビア北部のマクリア王国にも圧力をかけた。王シマムーンは、カラーウーンが立てた二人の王を廃位していたが、貢納を条件に黙認されていた。ハリールを侮って貢納をやめたため、アイバク・アルアフラムを指揮官とする軍が送られ、シマムーンは追放されて、新たな王が立てられた。重用した二人のマムルーク、イブン・アッサルウースとバイダラは互いに陥れようとして、ハリールに讒言した。処刑を恐れたバイダラが先手を打ち、1293年12月14日、ブヘイラ県のコウム・タルワジャで狩りをしていたハリールを暗殺した。遺体は2日間そこに放置され、タルワジャの長官によってカイロに送られて埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- ガンのヘンリクス (1293年没)
- オビッツォ2世・デステ (1293年没)
- ジャン・ド・ヴィリエ (1293年没)
- アイラス・ヌネス (1293年没)
- ダヴィト6世 (1293年没)
同じ地域に関係する人物
- ゲオルク・シュトゥンメ (1942年没)
- ハンス=ヨアヒム・マルセイユ (1942年没)