伝記
アッピウス・クラウディウス・プルケルは、紀元前97年ごろに生まれ、紀元前49年または48年に没した共和政ローマの政務官である。紀元前54年に執政官、紀元前50年に監察官を務めた。パトリキ(貴族)の名門クラウディウス氏族の出で、父は紀元前79年の執政官アッピウス・クラウディウス・プルケル、母はカエキリウス・メテッルス家の出身であった。長男で、弟にガイウスとプブリウスがいる。プブリウスは平民に身分を変えてプブリウス・クロディウス・プルケルと名乗り、紀元前58年に護民官を務めた。三人の姉妹はそれぞれ、ルクッルスやメテッルス・ケレルら有力者の妻となった。
父が早く亡くなったため、プルケルは弟たちの面倒を見ることになった。史料に初めて現れるのは紀元前75年で、権力乱用で告発されたウァッロの告発者の筆頭としてである。義兄弟のルクッルスが第三次ミトリダテス戦争で指揮をとると、その副司令官となり、紀元前72年にはアルメニアへ派遣され、ティグラネス2世にミトリダテス6世の引き渡しを求めた。アンティオキアで謁見を長く待つあいだにコルドゥエネ王ら多くの指導者を説得してローマとの同盟を結ばせたが、ティグラネスは、この青年の大胆な言葉に不快感を隠せず、引き渡しは拒んだという。紀元前63年には元老院議員で鳥占官でもあり、年初の占いで「遺憾で悲惨な内戦が勃発しようとしている」と告げ、この予言はあたった。年末にはカティリナの陰謀が露見し、12月5日の元老院では、執政官キケロに代わって議事録を保管していた。
紀元前61年には弟プブリウスがボナ・デア祭の冒瀆で告訴された。当時ギリシアにいたプルケルは、按察官選挙に出るため神殿や公共の場から芸術作品を取り去ってローマへ送っていたが、選挙には敗れた。紀元前58年にピソの支援で法務官に当選したが、キケロは不正をほのめかしている。紀元前57年の法務官在任中は、キケロを追放した弟を支え、キケロの追放解除に反対した高位政務官は彼だけであった。1月23日には、その問題を議論する民会を子飼いの剣闘士で解散させた。それでもキケロは同年に帰国できた。その後サルディニア属州の総督となり、紀元前56年4月にはルッカでの三頭政治の会議にも出席した。
紀元前54年にはアヘノバルブスとともに執政官となったが、汚職への関与が多く、前シリア総督ガビニウスの裁判では当初その利益のために動きながら、のちには「ローマ人の威厳を傷つけた」として告訴し、追放刑に至らせた。次期執政官選挙をめぐっては、候補者のカルウィヌスとメンミウスと、支援の見返りに属州を与えるか4000万セステルティウスを払うとする契約を結んだとされる。メンミウスがポンペイウスの要請で元老院でこの契約を読み上げ、両執政官は恥をかかされたが、それ以上の罰はなかった。
続いてキリキア総督となり、紀元前53年から51年まで約2年務めた。娘をポンペイウスの長男グナエウスに嫁がせ、ポンペイウスの積極的な支持者となっていた。最初の年には軍事的勝利を収め、兵士たちからインペラトルと讃えられたが、軍団は大損害を受け、士気は低く、反乱寸前の状態になった。後任のキケロの書簡によれば、プルケルは違法な税で属州を荒廃させた。キケロの表現には誇張があるかもしれない。義理の息子ブルトゥスを支援していたことは確かである。帰国後、凱旋式を求めたが「ローマ人の威厳を傷つけた」としてドラベッラに告訴され、ブルトゥスらの弁護で無罪となった。紀元前50年には監察官に就任し、同僚はピソであった。歴史家サッルスティウスを元老院から除名した。
同じ年に亡くなった人物
- ルキウス・マルキウス・ピリップス (紀元前56年の執政官) (紀元前 40年(推定))
- Theodotus of Chios (紀元前40)
- クィントゥス・フフィウス・カレヌス (紀元前40年没)
- ブレビスタ (紀元前40年代没)
- アウルス・ガビニウス (紀元前40年代没)
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