HISTORICAL PERSON · 1298年没

オットー5世 (ブランデンブルク辺境伯)

ブランデンブルク辺境伯。伯父ボヘミア王オタカル2世の戦死後、幼いヴァーツラフ2世の摂政を務めたがボヘミア人には不人気だった。

生涯
1298年没
死亡地
—
出生地
チェコ共和国(プラハ)
出典
世界地図
チェコ共和国(プラハ)

伝記

オットー5世は、1267年から1298年までブランデンブルク=ザルツヴェーデル辺境伯を務めた人物で、「長身伯」と呼ばれた。怠け者伯とも呼ばれたという。1246年ごろ、辺境伯オットー3世の次男として生まれた。母ベアトリスは、ボヘミア王ヴァーツラフ1世の娘であり、ボヘミア王オタカル2世は母方の伯父にあたる。オットーは若いころ、プラハにあるこの伯父の宮廷で多くの歳月を過ごした。1267年4月19日に兄が早世すると、弟たちとともに父から継承した辺境伯領を治めたが、1272年に弟たちと仲たがいし、自分が所有する部分だけを治めるようになった。一方で、従兄のオットー4世とも辺境伯領を共同で統治した。

オタカル2世が母方の伯父にあたるため、オットーはボヘミアにしばしば介入した。1271年10月には、ハンガリー王イシュトヴァーン5世と戦うオタカル2世に援軍を率いて加勢した。1278年のマルヒフェルトの戦いにも参戦したが、オタカル2世は戦死した。オットーは、わずか7歳で王位を継いだオタカルの子ヴァーツラフ2世の摂政となり、1283年にヴァーツラフが成人するまで務めた。摂政として、オタカルの未亡人クンフタや、有力な貴族の派閥の策動に対処しなければならなかった。1279年には条約が結ばれ、モラヴィア辺境伯領は5年間ローマ王ルドルフ1世が治め、ボヘミア王領はヴァーツラフ2世に返された。

チェコの年代記作者たちは、オットーの厳しさと、その軍勢による略奪を記している。ヴァーツラフはシュパンダウの要塞に移され、自力で統治する前に、上ラウジッツへの権利をオットーに譲らねばならなかったという。摂政を終えてヴァーツラフを帰国させる代償として、オットーは銀2万マルクの支払いを求め、諸身分の代表が集まった議会は、その要求を受け入れねばならなかった。ボヘミア人にとっては外国人による統治であり、オットーは不人気だった。この時期のボヘミアでは疫病や飢饉も起こった。1283年にヴァーツラフが王として戴冠した後も、二人の仲は良好であったとされ、ヴァーツラフは母を取り巻く貴族たちの影響力を抑える手を打った。

1291年に妻の弟ポッポ8世が没すると、オットーは妻とともにポッポ8世が領有していたヘンネベルク伯領の一部を相続し、ブランデンブルク辺境伯領に編入した。1292年のローマ王選挙では、ブランデンブルク辺境伯としての投票権をめぐって、ブランデンブルク=シュテンダル辺境伯と争った。オットー5世がナッサウ伯アドルフを、オットー4世がルドルフ1世の息子アルブレヒトを支持し、派閥が異なったためである。ポンメルンへの権利も、ポーランドの要求に対して守り続けた。

オットーは1298年に没した。死亡日は不明だが、9月28日以降とされる。妻はヘンネベルク伯ヘルマン1世の娘ユーディトである。子には、辺境伯領を継いで1308年に没したヘルマン、1284年にシフィドニツァ公ボルコ1世と結婚したベアトリス、ポーランド大公ヘンリク4世の妃となったマティルデ、1303年にザクセン=ヴィッテンベルク公ルドルフ1世と結婚したユッタ、生涯未婚だったクニグンデらがいた。

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