伝記
福者ヨレンタは、ヴィエルコポルスカ公ボレスワフの妃で、ハンガリー王ベーラ4世の娘である。ヨラーンやヘレナとも呼ばれ、1235年から1239年のあいだに生まれたとされる。母は、ニカイア皇帝テオドロス1世ラスカリスの娘マリアである。2人の聖女、マルギトとキンガの妹にあたり、叔母のエルジェーベトもきわめて崇敬されている聖人である。幼いころから禁欲と敬虔さ、厳格な伝統の雰囲気のなかで育ったという。幼くして、ポーランド大公ボレスワフ5世の妃となっていた長姉キンガのもとに引き取られ、養育された。
1257年、周囲の勧めでヴィエルコポルスカ公ボレスワフと結婚した。結婚の年は1256年ともいわれ、クラクフで挙式したとされる。結婚後はヘレナという第二の名も用いた。戦争のため、2年続けて、キンガの夫にあたる大公の宮廷で暮らした時期があり、そののち夫の宮廷へ戻った。1263年に最初の娘エルジュビェタが生まれ、1266年にはのちにポーランド王ヴワディスワフ1世の妃となる次女ヤドヴィガが生まれた。末娘のアンナは1270年代の後半に生まれたとされ、のちにグニェズノの修道女となった。長女のエルジュビェタは、レグニツァ公ヘンリク5世と結婚している。
結婚していた間、ヨレンタは領国の貧しい人々や困窮者への施しで知られ、貧者を助ける修道院や托鉢修道会の修道院、慈善病院の主要な後援者となった。夫ボレスワフは妻の慈善事業をしっかりと支えたことで、「敬虔公」と呼ばれるようになった。1279年、夫に先立たれた。同じ年に未亡人となった姉のキンガ、そして自分の娘の一人とともに、ノヴィ・ソンチュのクララ会の女子修道院に入ったとされる。夫の死後まもなくクラクフの姉の宮廷を訪ね、そこからヴィエルコポルスカへ戻り、修道女になったのは1284年だともいわれる。
その後、この地域が武力紛争に巻き込まれたため、グニェズノに新しい修道院を建設して移り住んだ。死の直前に、この修道院の女子修道院長を務めるよう要請されて応じた。死の少し前には、イエス・キリストが現れて彼女に死を告げたと信じられている。ヨレンタは1298年6月11日に、グニェズノで世を去った。
死後すぐに彼女の墓は、そこで起こる奇跡によって知られるようになり、重要な巡礼地となった。ただし、最初の伝記が現れたのは1723年のことである。1827年には教皇レオ12世のもとで崇敬が認められ、列福された。ポズナンがプロイセン政府の下にあるという政治状況のため、列福の式典が行えたのは1834年だとされる。このとき遺骨は、彼女の名を冠することになったクララ会の礼拝堂に移された。ヨレンタは、グニェズノ大司教区とカリシュ教区の守護聖人とされている。
同じ年に亡くなった人物
- フィリップ・ダルトワ (1269-1298) (1298年没)
- トロス3世 (1298年)
- アルブレヒト2世 (ザクセン=ヴィッテンベルク公) (1298年没)
- プローチダのジョヴァンニ (1298年)
- オットー5世 (ブランデンブルク辺境伯) (1298年没)
同じ地域に関係する人物
- ミェシュコ2世 (ポーランド王) (1034年没)
- ルドルフ・ランゲ (1945年没)
- オドン (ポズナン公) (1194年没)
- オットー・ミュラー (1930年没)
- プシェミスウ2世 (ポーランド王) (1296年没)