HISTORICAL PERSON · 1298年没

フィリップ・ダルトワ (1269-1298)

アルトワ伯ロベール2世の子。フランドルとの戦役で重傷を負い没し、死後アルトワ伯領の相続権は幼い息子でなく姉マオーが握った。

生涯
1298年没
死亡地
ベルギー王国(ウェスト=フランデレン州 / フュルネー)
出生地
—
出典
世界地図
ベルギー王国(ウェスト=フランデレン州)

伝記

フィリップ・ダルトワは、フランス王家の傍系にあたるアルトワ伯ロベール2世の息子で、コンシュ、ノナンクール、ドンフロンの領主である。1269年11月に生まれたとされるが、正確な誕生日は伝わらない。母アミシー・ド・クルトネーは、コンシュとメアンの領主ピエールの娘で、両親は1262年に結婚している。1281年11月、ブルターニュ公ジャン2世の娘ブランシュと結婚した。

1284年8月15日、国王フィリップ3世の二人の王子、のちのフィリップ4世とヴァロワ伯シャルルとともに騎士に叙された。叙任の資金は、アルトワの住民から集められた。結婚と叙任を終えたフィリップは、母の広大な所領を受け継いだ。ノルマンディーのコンシュ・アン・ウーシュとノナンクール、ベリーのメアン・シュル・イェーヴルである。この所領の分け方をめぐっては、姉マオーとの長い争いが起こり、1296年に父が仲裁に入らねばならなかった。1285年のアラゴン十字軍にも加わったらしく、王室の記録に載っている。フィリップ3世の治世の末には、弟ロベールとともに、母方の祖母ペロネル・ド・ジョワニーの遺産を求めた。祖母の再婚相手との間の長男ジャン・ド・シュリーには男の跡継ぎがなかったためである。1291年の聖燭祭に、高等法院はシュリーの所領の4分の1を兄弟に与えたが、ロベールはすでに亡くなっており、フィリップがすべてを受け取った。

フィリップは各地に所領と収入を持っていたが、経済的には父に頼っており、父は年に3000リーヴル、のちに5000リーヴル・パリジを支給した。妻の母方の伯父がイングランド王エドワード1世であったことから、イングランドとの外交の道を保っていたらしく、1291年にはバポームの城代を送って王に会わせた。アルトワ伯家は教皇庁とも良好で、教皇ニコラウス4世はフィリップ夫妻の選んだ聖職者に特権を与え、妻には六人の供を連れて年に4度、修道院を訪ねることも許した。後継の教皇ボニファティウス8世は、フィリップが聖座の承認なしには破門されないことや、毎年二つの礼拝堂を建てて寄進することを認め、夫妻は告解師を自由に選べるようになった。1297年7月9日に特権は確認され、告解師は修道の誓いと十字軍の誓いを除く、すべての誓いから彼を解くことができた。

1297年のフランドル戦争で、フィリップは最初、フランドル伯の長男ロベール3世が守るベテューヌの町を降伏させる任を負った。父は大軍を率いてリールに着き、フィリップも同行してサン・トメール、さらにフュルヌへ進んだ。8月20日、フュルヌ近郊のビュルスカンプで、フランス軍とフランドル軍が戦った。年代記作者ジョフロワ・ド・パリによれば、フィリップはドイツ人の指揮官にあやうく捕らえられかけ、父らに救われた。別の年代記作者ギヨーム・ギアールは、父が後衛を任せたのに、血気にはやるフィリップが数人のドイツ人に突っ込み、捕虜になったという噂が広まって、父が救ったと伝える。国王フィリップ4世は、同年10月から年2000リーヴル・トゥルノワの年金を払い始めた。この戦いでの負傷への償いとみられる。フィリップは重傷から回復しないまま、1298年9月11日に没した。

1302年、父ロベール2世が金拍車の戦いで戦死すると、アルトワ伯領の跡目争いが起こり、フィリップの姉マオーが実権を握った。フィリップの未成年の息子ロベール3世は、伯母に相続権を奪われる形となった。妻ブランシュとの間には、マルグリット、ロベール3世、ジャンヌ、マリー、カトリーヌらの子があった。

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