HISTORICAL PERSON · 紀元前40年没

ルキウス・ユリウス・カエサル (紀元前64年の執政官)

共和政ローマの政治家・軍人で、紀元前64年の執政官。姉妹の子にマルクス・アントニウスがいる。カティリナの陰謀では共謀者の裁判なしの処刑に賛成し、前52年にはガリアで遠縁のカエサルの副司令官を務めた。

生涯
紀元前40年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
古代ローマ
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ルキウス・ユリウス・カエサルは、共和政ローマの政治家・軍人で、紀元前64年に執政官を務め、紀元前40年頃に没した。ユリウス氏族は古い貴族の家柄で、祖先をアエネイアスの息子ユルスとし、女神ウェヌスにも連なると主張していた。父も祖父も同じルキウスの名で、父は紀元前90年に執政官、紀元前89年に監察官を務めた。父の兄弟には雄弁家として知られたストラボ・ウォピスクスがおり、母方の祖父フルウィウス・フラックスはグラックス兄弟の盟友で、元老院最終勧告を突きつけられて殺された。終身独裁官カエサルとは4代前の先祖を同じくする遠縁にあたり、姉または妹はマルクス・アントニウス・クレティクスに嫁いで、のちの三頭政治家マルクス・アントニウスを含む3人の息子を産んだ。

政治歴は、父が執政官だった紀元前90年に造幣官として始まったとされる。紀元前87年にマリウス派がローマを占領した際、父と二人の叔父は殺害または自決した。次の記録は紀元前77年のアシア属州での財務官で、この職権でイリオスにおいてアテーナーの祝典を開いている。法務官は紀元前74年から67年のいずれかの時期に務めたはずである。紀元前65年末に執政官選挙に立候補して下馬評は高く、平民のフィグルスとともに当選し、翌年に就任した。この年、元老院は高位官職候補者の選挙活動に同行する人数を制限し、公益に反するとみられる結社の禁止も決議した。

紀元前63年には遠縁のカエサルとともに、護民官サトゥルニヌスの殺害に関してラビリウスを取り調べた。有罪としたものの、手続きの違法を理由に上訴され、当時の法務官メテッルス・ケレルが上訴を阻止し民衆の投票を中断させたため、有罪判決は無効とされた。同年末にカティリナの陰謀が発覚すると、12月5日の元老院会議に出席した。キケロは民会の裁判なしに共謀者を処刑するよう求め、ルキウスの母方の祖父フラックスらが裁判なしに処刑された例を挙げた。共謀者の一人レントゥルス・スラはルキウスの義理の兄弟だったが、ルキウスは裁判なしの処刑に賛成した。

紀元前52年にはガリア総督カエサルの副司令官となり、ウェルキンゲトリクスの大反乱ではガリア・ナルボネンシスの防衛を担当した。紀元前49年に緊張が高まるとカエサルに従ったが、息子はポンペイウス軍に加わり、ポンペイウスの手紙には、ブルンディシウムへの撤退に同意した元執政官の中にルキウスの名がある。内戦中の行動は不明で、息子は紀元前46年にアフリカ属州で戦死した。紀元前47年、ローマにいたルキウスを、カンパニアの反乱を鎮めていた甥アントニウスが首都長官に任命したが、高齢に過ぎて市民に動揺が生じ、護民官ドラッベラの扇動もあって争乱となった。アントニウスは非常事態を宣言して軍を入れ、800人が殺害された。

紀元前44年夏、カエサルの暗殺後、ナポリで重病を患っていたルキウスはドラッベラの行動を認め、アントニウスには否定的な発言をした。ブルトゥスとキケロの交渉の仲介もしている。紀元前43年、元老院がアントニウスを公共の敵と宣言した際には、「戦争」の語を「蜂起」に書き改めさせ、完全には見捨てなかった。三頭政治が成立すると、ルキウスの名は粛清名簿の二番目に載ったが、アントニウスの母が彼を自宅に匿い、「お前が私達二人を処刑するまで匿い続ける」とアントニウスに告げたため、赦された。その後は不明で、長年鳥占官を務め、その法についての著作を書いたが現存しない。紀元前40年に後任の鳥占官が立っていることから、その頃に亡くなったと思われる。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物