伝記
マンスール・ラージーンは、エジプトのバフリー・マムルーク朝のスルターンである。正式にはアル=マンスール・フサームッディーン・ラージーンといい、ラージーン・スガイイルとも呼ばれる。在位は1296年から1299年で、チェルケス系の出身だったかもしれないという。第3代スルターンのマンスール・アリーに仕えるマムルークだったが、アリーが廃位されたのち、カラーウーンに買われた。カラーウーンは彼を娘と結婚させたという。その後、ダマスカスでスンコル・アル=アシュカルに投獄されたが、1280年にスンコルが敗れると、ダマスカスの副王となった。のちにスルターンのアシュラフ・ハリールに職を解かれ、死刑を宣告されたが、アミールのバドルッディーン・ビドラが助命を願い出た。
1293年、バイダルを首謀者とするハリール暗殺に加わった。暗殺後は罰を恐れて身を隠していたが、軍総司令官のアーディル・キトブガーに赦されて復職した。ハリールの子飼いのマムルークたちが、暗殺に関わったラージーンが罰せられずにカイロにいることに反発して反乱を起こしたが、敗れた。復職後は、キトブガーが新たに擁立した少年スルターンのナースィル・ムハンマドを廃するよう進言し、ムハンマドが廃されたのちは執権の地位に就いた。
やがてキトブガーが失政で支持を失うと、1296年11月15日、ラージーンはクーデターを起こして彼を廃し、スルターンとなった。ラージーンはカラーウーンの女婿で、ハリールとムハンマドの義兄弟にあたったが、アミールたちは即位に慎重だった。そこで、待遇の改善と、専横や財産の没収、直属のマムルークの優遇をしないことを約束して推戴された。即位後はキトブガーをサルハドに左遷し、ムハンマドも、成人したら地位を返すと約束してカラクに移した。減税とモスクの修築などの慈善で人心を得ようとしたが、約束に反して執権のカラーサンカルを罷免し、自分のマムルークのモンケ・テムルを執権に任じたため、アミールたちの不信が強まった。1297年には、妻の求めに応じて、バイバルスの妻と子のヒドル、サラーミシュの遺体がコンスタンティノープルからカイロに戻るのを許した。
1298年には、コプト教徒の官僚の進言で検地を行った。村ごとに税収を確かめ、領地の再分配が行われたが、結果はラージーンのマムルークに有利で、非マムルーク出身のハルカ騎士に不利だった。領地を削られたアミールも出た。実質的な責任者のモンケ・テムルが上エジプトに広大な領地を確保したことにも、不満の声が上がった。ラージーンは、モンケ・テムルへの位の継承をたやすくするため、主流のアミールたちを遠ざけようと、キリキアへの遠征に派兵した。モンケ・テムルが官職の配置を変えたことは、アミールのキルジーらを怒らせた。
1299年1月16日、ラージーンはモンケ・テムルとともに、ハリールの親衛隊のマムルークだったタグジーとキルジーによって殺された。ラージーンに代わってスルターンになろうとしたタグジーが殺されると、カラクのムハンマドが戻るまでの25日間、スルターンの座は空位となり、その間は7人のアミールの合議で政府が運営された。
同じ年に亡くなった人物
- ヤン1世 (ホラント伯) (1299年没)
- ラームカムヘーン (1299年没)
- バイダル (1299年(推定))
- ダウマンタス (プスコフ公) (1299年没)
- イブン・アダリ=アル=マラッキ (1299年没)
同じ地域に関係する人物
- Ibn 'Ata Allah (1398年没)
- Al-Kamil Shaban (1346年没)
- モハメド・アブデルワハブ (2006年没)
- Az-Zahir Sayf ad-Din Khuchqadam (1467年没)
- ロトフィア・エルナジ (2002年没)