伝記
イブン・アターウッラー・アル=イスカンダリーは、エジプトのマーリク派の法学者であり、ハディース学者であり、シャーズィリー教団の第3代の導師(ムルシド)となった人物である。アレクサンドリアに生まれた。宗教学者の家に育ち、アブー・ル=ハサン・アル=アイバーリーをはじめとする優れたマーリク派の法学者のもとで学び始めた。父はシャーズィリー教団の創始者アブー・ル=ハサン・アッ=シャーズィリーに深く傾倒していたが、本人はスーフィズムにたいへん懐疑的であったという。しばらくアレクサンドリアで教えたのち、マムルーク朝の首都カイロに出て、アズハル・モスクでハディースと法学を教えはじめた。弟子にはスブキーらがいた。
転機は、シャーズィリー教団の第2代の導師アブー・ル=アッバース・アル=ムルスィーとの出会いであった。最初の会話で、ムルスィーは簡潔だが決定的な心得を示した。恵みのときには感謝し、試練のときには耐え、従順のときには神の恵みを思い、背くときには赦しを求めよ、というものである。のちにイブン・アターウッラーは、この導きが不安を「脱ぎ捨てた衣のように」取り去ってくれたと語った。以後、彼はムルスィーの熱心な弟子となった。師のもとで12年を過ごし、法学者であると同時に精神の導き手でもある大きな権威となって、マムルーク朝の支配層を含むカイロの人々から敬われた。カラーウーンのような支配者にも助言を与え、宮廷にも影響力をもった。
著作では、神の名を唱える行(ズィクル)についての最初の体系的な論考とされる『救いの鍵』を書き、最もよく知られる箴言集『ヒカム(智慧の書)』によって、独立した導師として世に現れた。ムルスィーが亡くなると教団の長となり、教えの体系化を進め、創始者アッ=シャーズィリーやムルスィーの伝記を記録して伝えた。カイロのマンスーリーヤ学院でも教えた。公の場ではマーリク派の法学を教え、弟子を霊的に導いて、学者、支配者、庶民のいずれにも影響を与えた。
イブン・タイミーヤは、スーフィズムを厳しく批判して何度も投獄されたが、イブン・アターウッラーはこれに対抗した学者の一人であった。カイロのフサイン・モスクで、イブン・アターウッラーが礼拝を導いていたとき、釈放されたばかりのイブン・タイミーヤが会衆に加わって、その後ろで礼拝した。礼拝のあと二人は礼儀正しく挨拶を交わし、イブン・アターウッラーは謙虚に、イブン・タイミーヤの投獄に自分が何かしらかかわったのなら詫びたいと述べた。イブン・タイミーヤは、彼を深く敬虔で学識があり誠実な人物と評したと伝えられる。
1309年、60歳でカイロに没し、同地に葬られた。『ヒカム』は約261の箴言からなる短い書で、神と人間の関係についての簡潔な省察を、求道者への直接の導きとして記している。師の没後も、シャーズィリー教団の知的・精神的な方向を長く形づくった。
同じ年に亡くなった人物
- Iakovos I of Cyprus (1398年没)
- ループレヒト2世 (プファルツ選帝侯) (1398年没)
- フリードリヒ5世 (ニュルンベルク城伯) (1398年没)
- 崇光天皇 (1398年没)
- 朱元璋 (1398年没)
同じ地域に関係する人物
- ムスタアリー (1101年没)
- エヴリヤ・チェレビ (1682年没)
- サービト・エル・バタル (2005年没)
- バドル・アル=ジャマーリ (1094年没)
- エミール・バヤール (1891年没)