伝記
フォリーニョのアンジェラは、カトリック教会の聖人で、フランシスコ会第三会員のキリスト教神秘家である。1248年ごろ、ウンブリア地方のフォリーニョの裕福な家に生まれた。アッシジに近い町である。正確な誕生日は知られていない。早い時期に結婚して数人の子供をもうけ、若いころは世の中を愛し、それを喜びとする生活を送っていたと、のちに自らの著作に書いている。この時期のことで残っている情報は少ない。
1285年ごろ、彼女は内面の危機に見舞われた。アッシジのフランチェスコを幻視して、それまでの人生の空虚さを認め、より崇高な生き方を求めるようになったという。3年後に母が死去し、数か月後には夫と子供も失った。彼女は財産を手放して悔悛者として生き始め、マザツオラという同伴者とともに暮らした。悔悛の生活のなかで、持っていた最良の衣服を人に与え、断食もしたといわれる。おおよそ1291年(1290年とも)にフランシスコ会第三会に加わり、親族でもあったフランシスコ会士アルノルドを聴罪司祭として、その霊的な指導を受けた。
1291年にはアッシジへ巡礼に出た。途中で聖霊の存在を感じ、聖霊が語りかけながら同行してくれたが、聖フランチェスコ大聖堂に着くと去ってしまった。見捨てられたと感じた彼女は、入口で大声を上げて理由を尋ね、人々の注目を集めた。アルノルドは叱責して、戻ることを禁じた。翌1292年、アルノルドがフォリーニョに戻ると、彼女に叫んだ理由を尋ね、彼女は誰にも言わないと約束させたうえですべてを語った。その内容に感銘を受けた彼は、彼女の打ち明け話を書き留め始めた。これが『記念』の始まりである。彼女自身は書かず、口述したものを確認する形をとったとされる。ラテン語で書かれ、1285年の回心から1296年までを扱う。
1296年ごろから没するまでの間に、彼女の名声は高まり、男女の多くの人が周りに集まって、霊的な高まりを目指す第三会の集まりができた。のちにはフォリーニョに修道女のための共同体を作った。多くの手紙で神学上の疑問や霊的指導の問題に答え、「神学者たちの師」という称号を得た。厳格な清貧を求める霊的派の会士と修道院に属する会士の争いでは和解の役を担い、「自由な霊の兄弟団」には直接反対した。1298年には『記念』の文章が終わり、枢機卿と8人のフランシスコ会士に示されて承認を受けた。最終版の『本』には、彼女の教えを反映した36の「指導」が『記念』に加えられている。
1308年のクリスマスに、アンジェラは同伴者に、自分はまもなく死ぬだろうと語った。数日後、キリストが彼女の前に現れ、自分が天国へ連れていくと約束した。彼女は1309年1月3日とも4日ともいわれる日に、弟子たちに囲まれて眠るように死去した。遺体はフォリーニョの聖フランチェスコ教会に安置されており、死後も腐敗を免れたといわれる。1701年に列福され、2013年10月9日、教皇フランシスコが列聖した。『記念』と「指導」は常に一つの著作として編集され、のちにヨーロッパ各地に広まって、完全な写本が23点伝わる。聖フランシスコ・サレジオやボシュエ、フェヌロンらが読み、枢機卿シスネロスは1505年にスペイン語に訳させた。
同じ年に亡くなった人物
- ニムバルカ (1300年没)
- デスピナ (イルハン朝) (1300年(推定))
- 梁楷 (1300年(推定))
- タンホイザー (1300年(推定))
- アドネ・ル・ロワ (1300年)
同じ地域に関係する人物
- トーティラ (552年没)
- ガイウス・フラミニウス (紀元前217年没)
- ウルバヌス4世 (ローマ教皇) (1264年没)
- レナト・クーリ (1977年没)
- クラウス・フーバー (2017年没)