HISTORICAL PERSON · 1941年没

アムリタ・シェール=ギル

ハンガリー出身のインドの画家。「インドのフリーダ・カーロ」とも呼ばれ、20世紀のインドで最も重要な女性画家とみなされている。

生涯
1941年没
死亡地
パキスタン共和国(パンジャーブ州 / ラホール)
出生地
ハンガリー(ブダペスト)
出典
世界地図
パキスタン共和国(パンジャーブ州)

伝記

アムリタ・シェール=ギルは、1913年1月30日、当時オーストリア・ハンガリー帝国の一部だったブダペストに、ダルマ・アムリタの名で生まれた画家である。「インドのフリーダ・カーロ」とも呼ばれ、20世紀のインドで最も重要な女性画家の一人とみなされている。父ウムラオ・シン・シェール=ギル・マジーティアは、サンスクリット語とペルシア語に通じた学者で、パンジャーブ人のシク教徒であった。母マリー・アントワネット・ゴッテスマンは、裕福な市民の家に育ったユダヤ系ハンガリー人のオペラ歌手である。2人は1912年にラホールで出会った。アムリタは2人姉妹の姉で、妹のインディラの息子は、のちの現代美術家ヴィヴァン・スンダラムである。一家は第一次世界大戦が終わるまでブダペストに留まらざるをえなかった。叔父のインド学者エルヴィン・バクタイは1926年、シムラ訪問中にその才能に気づき、絵の道に進むことを勧め、作品を批評して学問的な土台を与えた。幼いころは家の使用人を描き、モデルにさせたという。

家がハンガリーで経済的に苦しくなり、1921年に8歳のアムリタは一家でインドのシムラへ移った。ピアノとヴァイオリンを習い始め、妹とともに9歳までに演奏会を開き、劇場の芝居にも出た。絵は5歳のころから描いていたが、8歳で本格的に習い始め、のちホイットマーシュ少佐、ついでヘイル・ビーヴァン=ペットマンの指導を受けた。カトリックの学校では、無神論者だと宣言して退学になったという。1923年に母がシムラに住むイタリア人の彫刻家と親しくなり、翌1924年にその彫刻家がイタリアに戻ると、母もアムリタを連れて移った。フィレンツェの美術学校に入ったが、長くは留まらずインドに戻った。それでもここで、イタリアの巨匠たちの作品に触れている。

16歳のとき、画家になる修業のため母とともにヨーロッパへ渡った。パリではまずグランド・ショミエール芸術学院でピエール・ヴァイヤンやリュシアン・シモンに学び、仲間のボリス・タスリツキーらにも出会った。のち1930年から1934年まで、エコール・デ・ボザールで学んだ。セザンヌ、ゴーギャン、モディリアーニらの影響を受け、16歳とは思えない確信と成熟をもって描いたといわれる。1931年には一時、ユスフ・アリ・カーンと婚約したが、従兄弟でのちに夫となるビクトル・イーガンとの関係も噂された。1932年の油彩『若い少女たち』は飛躍のきっかけとなり、金メダルを得て、翌1933年にはパリのグラン・サロンの準会員に選ばれた。最年少で、アジア人としても唯一であったという。初期の作品は、後期印象派などの西洋の様式の影響が強く、自画像や、パリの暮らし、裸体習作、静物、友人の肖像を描いた。パリの教授の一人は、その色彩の豊かさから、彼女の芸術はむしろ東洋でこそ真の空気を見いだすだろうと語ったという。

1934年にインドへ帰国し、カルカッタを本拠にインドの伝統芸術に範を取りながら、近代絵画の創作を続けた。1938年に従兄弟のビクトル・イーガンと結婚した。ラビンドラナート・タゴールやジャミニ・ロイと並ぶ、ベンガル・ルネサンスの担い手に数えられる。1941年12月5日、ラホールで個展の準備中に腹膜炎で急死した。2016年1月30日には、生誕103周年として『三人の少女たちの群れ』とともにグーグルのロゴ画像に取り上げられた。

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