伝記
アルタウァスデス2世は、アルメニア王国アルタクシアス朝の王で、紀元前31年に没した。在位は前53年から前34年とも、前55年から前34年ともされる。父は「大王」と称されたティグラネス2世で、その跡を継いだ。父と同じく「諸王の王」の称号を用い、貨幣にもそれが見える。
父ティグラネス2世は、ポントス王ミトリダテス6世の戦争に反ローマの立場で加わったが、ミトリダテスは3度の戦争の末に敗れ、ティグラネスはポンペイウスとの協定を受け入れてローマと同盟した。アルタウァスデスも当初はローマの同盟者であり、シュリア総督クラッススがパルティア遠征を準備した際には、砂漠を避けてアルメニアを通る道をとるよう勧め、騎兵1万と歩兵3万の増援を申し出た。アルメニアの高地ではパルティアの騎兵の力が弱まるという考えからだったが、クラッススは断り、メソポタミアを直進する道を選んだ。
クラッススはカルラエの戦いで戦死した。その軍がカルラエへ進む間に、パルティア王オロデス2世がアルメニアに侵入して支援を断ち、アルタウァスデスにオロデスの子パコルス1世との婚姻同盟を結ばせた。アルタウァスデスはローマと手を切り、自らの姉妹をパコルスに嫁がせた。この婚礼を祝うアルメニアの宮廷では、エウリピデスの『バッカイ』の劇が上演されていたが、そこへパルティアの将軍シラケスがカルラエの勝利を告げ、クラッススの首をオロデスの足もとに置いた。首は劇の演出家に渡され、ペンテウスの小道具の首の代わりに使われたという。両王はギリシア文学に通じていた。前38年にパコルスが死に、オロデスの別の子ピラハテス4世が継ぐと、パルティアとアルメニアの関係は損なわれた。
前36年、アントニウスがパルティア遠征を始めると、アルタウァスデスは再びローマ側につき、騎兵6千と歩兵7千を提供したとプルタルコスは記す。敵のアトロパテネ王を攻めるようアントニウスに勧めたともいう。しかしローマ軍がアトロパテネへ向けてアルメニアを離れると、ローマに望みがないとして離反し、パルティア側についた。その結果、補給が滞ってパルティアとの戦争は不調に終わり、ローマ軍の憤りを買った。前34年、アントニウスは報復としてアルメニア侵攻を計画し、友人のクィントゥス・デッリウスを遣わして、息子アレクサンデル・ヘリオスとアルタウァスデスの娘との婚約を申し入れたが、王はためらった。アントニウスは西アルメニアに入り、パルティアとの戦争の協議と称してニコポリスに王を呼んだが、王は来なかった。ローマ軍は財宝を得ようとして首都アルタクサタに進み、内通者の助けもあって王を捕らえた。息子のアルタクシアスが後継の王に立てられたが、ローマ軍に敗れてパルティアへ逃れた。アントニウスは王をアレクサンドリアへ連行した。
王とその家族は金の鎖で縛られ、アントニウスの凱旋式で晒し者となった。クレオパトラ7世は王に自らへ従うよう求めたが、王は拒んだ。前31年、アクティウムの海戦でアントニウス派が敗れると、クレオパトラの命令で王は処刑された。その首はメディアへ送られたとされる。プルタルコスは、王がよく教育を受けてギリシアの文物を好み、ギリシア悲劇や歴史書を著した学者だったと記す。名の伝わらない妻とのあいだにアルタクシアス2世とティグラネス3世の2人の息子がおり、娘はカッパドキア王アルケラオスに嫁いだともいわれる。エジプトでの幽閉の記憶は、アルメニアの民間伝承にも残り、アララト山に閉じ込められた王の帰還を民が待つという伝説になった。
同じ年に亡くなった人物
- グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前32年の執政官) (紀元前31年没)
- 呼韓邪単于 (紀元前31年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 (1947年没)
- アブデラのヘカタイオス (紀元前300)
- プトレマイオス15世 (紀元前30年没)
- クレオメネス3世 (紀元前210年代没)
- ペルガのアポロニウス (紀元前190年代没)