伝記
マルクス・アントニウスは、紀元前83年1月14日に生まれ、紀元前30年8月1日に没した共和政ローマの政務官である。第二回三頭政治の一頭として権力を握ったが、のちにガイウス・ユリウス・カエサルの姪の息子オクタウィアヌスに敗れた。その生涯はシェイクスピアの戯曲『アントニーとクレオパトラ』でも知られている。祖父は執政官や監察官を務めた当代随一の弁論家マルクス・アントニウス・オラトルで、スッラ派とみなされたため、孫の生まれる前の紀元前87年、マリウスとキンナがローマを制圧した際に殺害された。父クレティクスは紀元前74年に法務官を務めたが、海賊征討の任務で失態を犯し、挽回できぬまま失意のうちに紀元前72年頃に世を去った。母ユリアはカエサル家の出で、夫の死後にレントゥルス・スラと再婚した。このレントゥルスはカティリナの陰謀への加担を理由に、紀元前63年に執政官キケロの手で処刑されている。
多難な青年期を送った彼は、ガイウス・スクリボニウス・クリオと徒党を組んで乱痴気騒ぎを起こし、放蕩で悪名を馳せる一方、有り余る野心と才能で強い存在感を示した。やがてギリシアへ渡り、紀元前57年からシュリア属州総督ガビニウスの配下で騎兵隊長となった。紀元前55年にはプトレマイオス12世の復位のためエジプトへ侵攻し、このとき、まだ少女だったクレオパトラ7世に魅了されたとアッピアノスは記している。紀元前52年に財務官に選ばれると、ガリア戦争を指揮するカエサルの配下に加わり、アレシアの戦いでは同僚トレボニウスと連携して戦線を支えた。紀元前50年にはローマへ戻り、卜鳥官の選挙でカエサルの政敵アヘノバルブスを破った。翌紀元前49年に護民官となった彼は、クリオの後任として拒否権を用いて反カエサル派に抵抗し、ポンペイウスを痛烈に批判した。元老院最終決議によってローマを追われると、ルビコン川付近で合流したカエサルは、もはや交渉の余地はないと悟り、ルビコン川を渡って戦う決意をしたという。内乱では、紀元前48年のデュラキオンで敗れたが、ファルサルスの戦いでは左翼を任されて勝利を支えた。カエサルは彼を騎兵長官に指名してローマの統治を任せた。紀元前47年にドラベッラの扇動で暴動が起きると、武力で鎮圧したが、市民800人以上が犠牲になり、反発を買った彼は一時冷遇された。
紀元前45年、カエサルはナルボで彼との関係修復に努め、翌年の執政官の座を用意した。紀元前44年2月15日のルペルカリア祭では、王の証であるダイアデムをカエサルに献上し、断られる一幕があった。3月15日の暗殺の際は、共謀者トレボニウスに引き留められ、その隙に凶行が行われた。暗殺後は、カエサルの妻カルプルニアから遺言状などの文書を受け取り、事態の収拾に努めた。3月20日には追悼演説と遺言の公開で民衆を熱狂させ、ブルトゥスら暗殺者たちはローマを離れた。
これに脅威を感じたキケロは、カエサルの相続人に指定されたオクタウィアヌスに近づき、『ピリッピカ』でアントニウスへの敵意を鮮明にした。紀元前43年4月のムティナの戦いで、彼は執政官ヒルティウスとパンサを戦死させたものの敗れ、ガリア・ナルボネンシスへ退却した。そこでレピドゥスと同盟を結び、カエサルの旧部下たちも合流した。8月にローマを制圧したオクタウィアヌスと、ボノニアでレピドゥスを交えて会談し、任期5年の国家再建三人委員会が成立した。11月27日に始まった粛清ではキケロも対象となり、63歳で首を刎ねられた。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハネ・ヒルカノス2世 (紀元前30年没)
- ウァロ・アタキヌス (紀元前30年代没)
- プブリウス・カニディウス・クラッスス (紀元前30年没)
- ボグド (紀元前30)
- プトレマイオス15世 (紀元前30年没)
同じ地域に関係する人物
- アリー・ヴァースブ・オスマンオウル (1983年没)
- セレウコス7世 (紀元前58年没)
- チモカリス (紀元前260年没)
- アポロニア (聖人) (249年没)
- アレクサンドリアのテオン (405年没)