伝記
成帝は、前漢の第12代皇帝である。名は劉驁といい、紀元前51年ごろ、皇太子劉奭(のちの元帝)と王政君の長男として生まれた。このころ父の劉奭は宣帝の不興を買い、廃太子になるかどうかの瀬戸際にあったが、後嗣となる劉驁が生まれたため沙汰止みとなったという。宣帝は孫の誕生を喜び、「太孫」という字を与えた。前47年には皇太子に立てられた。
成長するにつれ、元帝は皇太子の資質に不満を募らせていった。前35年に元帝の末弟の中山王劉景が亡くなった際には、同じ年頃で遊び仲間だった皇太子の悲しみ方が足りず、礼を欠くとして元帝が怒ったことがあった。このときは皇太子の家令であった史丹が取りなして事なきを得た。皇太子は酒と女色を好むことで知られていた一方、傅昭儀の子である定陶王劉康は聡明で勤勉、音楽、とくに太鼓の腕も優れていて、元帝と親しんだ。元帝が重病にかかったとき、元帝は劉康を後継ぎに替えることを考えたが、史丹の説得で思いとどまった。前33年に元帝が死去し、皇太子が即位して成帝となった。
即位後、王政君は皇太后となり、成帝は母方の伯父・叔父たちの王氏を重く用いた。宣帝以来、中書を担当して政治に影響を与えてきた宦官勢力は弱まったが、かわって外戚の王氏が朝政に深く関わるようになった。王鳳、王音、王商、王根、そして王莽が、順に軍の最高職である大司馬を務めて政権を握った。王氏の六人の兄弟が侯に取り立てられたが、これは高祖が定めた、功績のある者だけを侯とする決まりに反するものであった。のちの王莽による簒奪の要因はここにあるとされる。治世の後半は、王氏と丞相翟方進ら官僚との政治闘争が続き、地方では小規模な反乱が頻発して、漢朝の統治力の低下が明らかになった。末年には翟方進・何武らによる制度改革も行われたが、衰えた漢朝を立て直すには至らなかった。前29年には黄河の堤が決壊し、責任を感じた丞相の尹忠が自殺する事件もあった。
史書によれば、成帝は酒色を好み、威風堂々とした外見ながら無能であったという。鴻嘉年間以降は、張放ら少数の供を連れ、「張公子」と名乗ってひそかに城内に出て遊び歩くことがたびたびあり、士大夫層からも外戚からも問題視された。皇后の許氏を寵愛し、子孫繁栄のため他の妻妾にも目を向けるよう臣下に諫められたほどだったが、寵愛は衰えて皇后を廃した。その後、趙飛燕が皇后、妹の趙合徳が昭儀となり、成帝の寵愛を独占した。趙姉妹は寵愛が他へ移るのを防ぐため、成帝が他の妃との間にもうけた皇子を殺害したとされる。成帝の男子は、いずれも幼くして亡くなっている。うち一人は飢えて死に、もう一人は獄中で窒息させられたと伝えられる。
成帝には跡継ぎがなく、甥の劉欣(のちの哀帝)を皇太子に立てた翌年の綏和2年(前7年)、突然亡くなった。在位は前33年から前7年まで、26年に及んだ。死の間際までそばにいた趙合徳が原因だという噂が流れ、孝元皇太后が調べようとしたが、趙合徳は自殺した。哀帝が即位すると趙飛燕は皇太后となったが、皇子殺害が発覚して、その権力は表面だけのものになった。成帝と趙飛燕の関係を描いた小説『飛燕外伝』は史実を忠実に反映したものとはいえないが、後世の成帝の印象を決定づけた。始建国2年(10年)には、成帝の落胤の劉子輿と名乗る者が現れて処刑され、新末には王郎も同じ名を偽称するなど、成帝の皇子が生き延びたという民間伝説が広まっていた。