HISTORICAL PERSON · 紀元前233年没

韓非

戦国時代の韓の公子で、法家の代表的思想家。『韓非子』の著者。荀子に学んだとされ、重度の吃音だったが文才に優れた。秦へ使者に出て秦王に才を認められたが、李斯の讒言で投獄され、獄中で自殺したという。

生涯
紀元前233年没
死亡地
元(陝西省 / 咸陽県)
出生地
中華人民共和国(新鄭市)
出典
世界地図
元(陝西省)

伝記

韓非は、中国の戦国時代の思想家で、法家の代表的人物であり、『韓非子』の著者である。生年は紀元前280年ごろとされ、没年は紀元前233年である。もとは単に韓子と呼ばれていたが、唐代の詩人韓愈が韓子と呼ばれるようになると、韓非子の呼び名が一般化した。その生涯は、司馬遷の『史記』「老子韓非子列伝」や「李斯伝」などに伝えられるが、記述は非常に簡略である。『史記』によれば、出自は韓の公子で、のちに秦の宰相となる李斯とともに荀子に学んだとされ、これが通説になっている。ただ『韓非子』には荀子への言及がきわめて少なく、『荀子』にも韓非への言及がないため、貝塚茂樹は、荀子の弟子とする記述の事実性に疑いを示している。

韓非は生まれつき重い吃音があり、幼いころは異母兄弟から「吃非」と呼ばれて見下され続けたという。しかし文才に恵まれ、書き物によって自分の考えを説明するようになり、これが後の『韓非子』の作成につながったと思われる。荀子のもとを去って故郷の韓に帰り、韓王にしばしば意見を述べたが、容れられず、鬱々と過ごしたようである。度重なる建言は、韓が非常に弱い国であったことに起因する。戦国末期には七つの強国が残り、なかでも秦が最も強大で、紀元前260年の長平の戦い以降、その傾向は決定的になっていた。韓は秦の隣国であり、七国のうち最も弱く、秦への入朝や貢ぎ物、労役の提供は、郡県と変わらないと言われるほどの状況だった。故郷がやがて秦に併合されそうな勢いのなかで、用いられない自分を嘆き、思想を形にして残そうとしたものが『韓非子』とされる。

転機は、隣国秦への使者となったことだった。秦では、属国でありながら面従腹背の韓を郡県にすべきだという議論が李斯の上奏で起こり、韓非は弁明のために韓から派遣された。以前に韓非の文章、おそらく「五蠹」編と「孤憤」編を読んで敬服していた秦王は、彼を登用しようと考えたが、李斯は自分の地位が脅かされるのを恐れて王に讒言した。韓非は牢につながれ、李斯が毒薬を届けて自殺を促し、彼はこれに従ったという。背景には、各国の密偵の暗躍や外国人の出世への反感から、外国人追放令が出されるなど、秦で外国人への警戒が高まっていたことがあり、韓非は外国人の大物として身代わりにされたとされる。司馬遷は伝の結びに、「説難篇」で君主に説くことの難しさを述べながら、自身は秦王に説いてその難しさを免れなかったことを悲しむと記した。一方、『戦国策』「秦策」には、韓非が秦の重臣姚賈を讒言したために誅殺されたという異聞があり、貝塚茂樹は『史記』が誤りで『戦国策』が正しいと推察している。

思想の中心は政治思想で、法実証主義の傾向があるとされる。金谷治は、確実に韓非の著作といえるものとして、「五蠹」「孤憤」「説難」「顕学」の各編を挙げる。儒家や墨家の説は客観的に真実かどうか確かめられず、政治の基準にならないと批判し、君主が万人に明らかな法を定め、賞罰を厳正に行えば、臣下は君主のために働くようになると説いた。また古今は変わるのであり、古の聖人の政治を今の世にそのまま当てはめる者は誤っていると述べ、時代に応じて法も罰も改めるべきだとした。法と術に並ぶ中心概念として、人為的に形づくられる権勢である「勢」を重んじ、法で定められた権勢に従えば、暴君の乱政にも備えられると論じた。人間観には荀子の性悪説に近い功利的な面があり、荀子の影響の大きさについては研究者の見解が分かれる。

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