伝記
カミーユ・クローデルは、1864年12月8日、フランス北部エーヌ県のフェール=アン=タルドノワに、父ルイ=プロスペルと母ルイーズの長女として生まれた彫刻家である。劇作家、詩人、外交官のポール・クローデルは弟にあたる。カミーユの前にも子が生まれたが、みな間もなく夭折したため、実質的な長子だった。父は抵当や銀行取引を扱い、母はシャンパーニュ地方のカトリックの農民と司祭の家の出身だった。一家は幼いころに転居を重ね、ノジャン=シュル=セーヌにいた12歳のころ、地元の粘土で人体を彫り始めた。母は「淑女らしくない芸術家への望み」を認めず、のちに生まれた次女に自分と同じ名を与えて溺愛し、カミーユを疎んじた。一方、父は娘の作品を芸術家である隣人アルフレッド・ブーシェのもとに持っていき、才能を確かめた。ブーシェは才能を認め、家族に彫刻の勉強を支援するよう勧めた。
1881年、父を残して一家はパリに移った。当時のエコール・デ・ボザールは女子の入学を認めておらず、カミーユは数少ない女子学生に開かれていたアカデミー・コラロッシで学び、ブーシェの無料の授業も受けた。1882年にはイギリス人の彫刻家3人とアトリエを共同で借り、ブーシェは週に何度も指導にきた。ブーシェがイタリアへ発つにあたり、生徒たちの指導をオーギュスト・ロダンに託したことから、ロダンとカミーユが出会い、芸術上の結びつきと、激しい恋愛関係が始まった。19歳でロダンの弟子となったとき、ロダンは42歳だった。ロダンには内妻ローズがいたため三角関係となり、その関係は15年にわたって続いた。ロダンは二人のどちらも選べず、中途半端な関係を続けた。カミーユは20代後半にロダンの子を妊娠したが、彼は産むことを認めず、中絶して多大なショックを受けたとされる。やがて二人の関係は破綻し、ロダンはローズのもとへ帰った。
芸術と私生活の両面でロダンを支えながら裏切られた形となったカミーユは、1905年ごろを境に精神が不安定になり、多くの作品を破壊した。翌1906年に弟ポールが外交官として上海へ向かうと、アトリエに引きこもるようになった。1913年、唯一の理解者だった父が亡くなり、心の支えを失って、統合失調症を発症したとされる。同年3月10日、ポールによってパリ郊外の精神病院に強制入院させられた。その後、第一次世界大戦の影響で南仏アヴィニョン近郊のモンデヴァーギュ精神病院に転院し、以降の生涯をそこで過ごした。母は1929年に死去するまで一度も見舞いに行かず、定期的に面会したのは弟のポールだけだったが、彼も退院は決して許可せず、見舞いは数年に一度となった。
入院後は創作をせず、誰とも口をきかず、自分の世界に閉じこもった。毎朝、病院構内の礼拝堂に向かって祈り、みすぼらしい身なりで痩せこけた晩年の姿に面会したポールは愕然としたという。故郷に帰ることを終生願ったが、叶わなかった。1943年10月19日、家族に看取られることなく78歳で亡くなった。現存する作品は、破壊を免れた約90の彫像、スケッチ、絵画で、代表作に『分別盛り』『ワルツ』がある。死後の1951年にポールがロダン美術館で作品展を開き、2017年にはノジャン=シュル=セーヌにカミーユ・クローデル美術館が開設された。
同じ年に亡くなった人物
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- ファッツ・ウォーラー (1943年没)
同じ地域に関係する人物
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