伝記
アバノのピエトロは、中世イタリアの哲学者で、占星術師であり、パドヴァ大学の医学教授でもあった人物である。アポノのペトルス、あるいはアポネンシスとも呼ばれる。名の由来となった町、現在のアーバノ・テルメで、1257年ごろに生まれたとされる。若い頃のことはあまりわかっていない。一時ギリシアに住んだのち、コンスタンティノープルで1270年から1290年のあいだに長く学び、ここでギリシア語を身につけたとされる。1300年ごろにはパリに移った。パリで哲学と医学の博士号を得て、医業で大いに成功したが、謝礼はかなり高額だった。この地で「大ロンバルド」と呼ばれるようになった。1306年にパリを去り、パドヴァに戻って、内科医として評判を得た。
ピエトロは人相学、地占術、手相術に関する書物を著し、その後、哲学、自然学、占星術の研究へと進んだ。哲学と自然学の学識により、当時の歴代の教皇たちに紹介され、学者たちの間に名声を得た。占星術の腕前についても、パドヴァの宮殿の大広間に描かれた天文学者たちの肖像の一つになったこと、最も学識の高いラビ、アブラハム・イブン・エズラの著作を翻訳したことなどから、うかがえる。のちの数学者レギオモンタヌスは、占星術師としての彼を、パドヴァで行った公開の講演で称賛した。ピエトロは、アヴェロエスや他のアラビア人著述家の医学・哲学の体系を詳しく論じ、支持した。
もっともよく知られた著書は、『哲学者と医者の間の相違を調停する書』である。アラビア医学とギリシアの自然哲学を一致させようとする試みで、16世紀になってようやく権威あるものとされた。もう一つの『毒物とその治療法について』は、毒や伝染などをめぐるアラビア人の説を論じた書である。魔術の冊子『ヘプタメロン』の著者ともされてきた。曜日ごとに対応する天使を呼び出す儀式の書である。しかし実際には16世紀中ごろより前にはさかのぼらず、ピエトロとの関係を示す証拠はない。
占星術師でもあったピエトロは、魔術を行った廉で告発された。具体的な内容は、自分が支払った金銭を悪魔の助けでみな取り戻したということや、賢者の石をひそかに持っているということだった。彼は異端審問所によって2度、裁判にかけられた。最初は無罪とされたが、2度目の裁判が結審する直前に獄中で亡くなった。それでも有罪とされ、遺体を墓から掘り出して火刑にせよとの判決が下った。しかし一人の友人が遺体をひそかに運び出したため、審問所は判決の条文を公示し、ピエトロの身代わりの人形を焼くにとどまった。遺体はあちこちに移されたあと、墓碑銘も名誉の標もないまま、聖アウグスティノ教会に落ち着いたという。
告発者たちは、ピエトロを魔術師であるとして非難しながら、精霊の存在は否定していた。その意見は一貫していなかった。近代のオカルティスト、フランシス・バーレットは、異端審問が彼に死を宣告した理由は魔術ではなく、自然の不思議は天体の影響によると説いたことが、霊的存在の教義に反したためだろうという見方を引いている。ピエトロは1315年ごろ、58歳で世を去った。没年を1316年とする記述もある。
同じ年に亡くなった人物
- Stephen I, Ban of Bosnia (1315年(推定))
- ブルガリアのツァーリイヴァン2世 (1315年(推定))
- ラモン・リュイ (1315年没)
- Frik (1315年)
- ユーグ5世 (ブルゴーニュ公) (1315年没)
同じ地域に関係する人物
- アレクサンデル・ギェルィムスキ (1901年没)
- スピキオーネ・ボルゲーゼ (1633年没)
- ナルセス (573年没)
- エンリコ・フェリ (1929年没)
- レオ5世 (ローマ教皇) (904年没)