伝記
ステファン・コンスタンティンは、中世セルビア王国の王である。国王ステファン・ウロシュ2世ミルティンの子として一二八二年か一二八三年ごろに生まれたとされ、ミルティンの息子たちのうちでは弟にあたると考えられている。母はテッサリア君主ヨハネス1世ドゥーカスの娘ヘレナとされるが、確かなことは分かっていない。ミルティンは生涯に五度結婚したとされるものの、その妻たちや娘たちの時期が記録に残っていないため、母の名も生まれた順番も、はっきりしないのである。一三一五年から一三二一年にかけて建てられたグラチャニツァ修道院の壁画には二十歳ほどの姿で描かれており、これを根拠に生年を十三世紀の末ごろとみる研究者もいるが、一三〇三年に地方の統治を任されたという記録とは食い違う。
一三〇三年から一三〇六年まで、コンスタンティンはネヴェシニェ地方を治めた。この地はフム(ザフムリェ)の一部で、そのため彼はフムの摂政とも呼ばれた。当時のセルビアでは、跡継ぎとなる年長の王子が「若王」の称号を受けてゼタを治めるのが習わしで、ミルティンもその地位を兄のステファンに与えていた。だがステファンは、母との結婚が無効とされて自分が庶子の扱いを受けていたため、王位を継げる見込みに不満を抱き、土地の貴族にも押されて一三一四年に父に反旗を翻した。反乱はミルティン自らが軍を率いて素早く鎮められ、ステファンは捕らえられて鎖につながれ、目を潰されたうえでコンスタンティノープルへ追放された。ただし目を潰す処置は、買収のためにきちんと行われなかったという。
ミルティンはその後、コンスタンティンにゼタの統治を任せた。王子時代の領地は、ゼタとフム、トラヴニアであった。コンスタンティンはゼタ王を名乗り、スクタリ(現在のシュコドラ)で自分の貨幣を鋳造した。一三一六年に叔父のステファン・ドラグティンが没すると、若王の称号とゼタが与えられたともいわれる。兄を追放した父の跡継ぎとなったものの、ミルティンがコンスタンティンを後継者に指名したのはほかに選べる者がいなくなってからだとされ、同時代の人々からもあまり重んじられなかったらしい。
一三二一年にミルティンが亡くなると、王位の継承は宙に浮いた状態になった。コンスタンティンは、セルビアに内戦を起こそうと企てていたブルガリアに王として擁立され、同年十月二十九日からセルビア王の座に就いた。王位をめぐっては、コンスタンティン、異母兄弟ともされる兄のステファン、従兄弟のウラディスラフ2世の三人が争い、二年に及ぶ内戦に発展した。やがてコンスタンティノープルから帰国したステファンとの戦いに敗れ、コンスタンティンは一三二二年に殺害された。法に則って継いだ王位を、実の兄の手で奪われた最期であった。ステファンは続いてウラディスラフをも破り、ステファン・ウロシュ3世デチャンスキとしてセルビア王位に就いた。コンスタンティンの生涯は中世の年代記でも不明瞭で、今ではほとんど忘れられている。生涯に関する情報の大半は概数で、ほかの人物の伝記から推し量るしかない。それでも、中世には聖人に列せられた可能性さえあるともいわれる。
同じ年に亡くなった人物
- ベアトリチェ・シフィドニツカ (1322年没)
- ルスティケロ・ダ・ピサ (1322年)
- マッテーオ1世・ヴィスコンティ (1322年)
- ナスル (ナスル朝) (1322年没)
- ジャコブス・デ・チェッソリス (1322年)
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