伝記
ハインリヒ1世は、1267年8月ごろに生まれ、1322年9月7日に没したヴェルフ家の諸侯である。ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公アルブレヒト1世の長男で、母はアレッシーナといい、1285年に世を去った。父は1279年に亡くなり、ハインリヒは12歳か13歳だった1280年の復活祭から、ザクセン公領内の領地の統治を始めた。のちには弟のアルブレヒト2世、ヴィルヘルム1世とともに共同で領地を治めている。1282年にはヴェッティン家のマイセン辺境伯アルブレヒト2世の娘アグネスと結婚し、のちに16人の子をもうけたとされる。
父の遺領をめぐっては兄弟のあいだで相続争いが起こった。領地の分割は1286年に行われたとも、1291年に行われたともいわれ、1290年には三兄弟が合意に達したという。ハインリヒは、グルーベンハーゲン、アインベック、ハーメルンの町の半分、ドゥーダーシュタット、オステローデ、アーメルングスボルン、ランメルスベルクの鉱山やクラウスハル周辺の森林などを手にした。こうして生まれた侯領はブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲンと呼ばれ、アインベック、オステローデ、ヘルツベルク、ドゥーダーシュタットの町を含んだ。ハインリヒはアインベックに居を構え、グルーベンハーゲン系ヴェルフ家の始祖となった。この系統は相続争いの経緯からブラウンシュヴァイク公の称号しか名乗れず、リューネブルクの名を加えたのは16世紀になってからである。グルーベンハーゲンという呼び名自体も1617年ごろになって見られるようになったもので、それ以前に領地がどう呼ばれていたかは分かっていない。
1291年ごろ、ハインリヒは国王ルドルフ1世からザクセン宮中伯の地位を与えられた。ハプスブルク家のルドルフ1世の没後には、後継のローマ王の候補として一部の帝国諸侯や選帝侯に推されたが、選ばれたのはナッサウ伯アドルフであった。
ハインリヒの治世には多くの伝説が残る。ヒルデスハイム司教領との争いをはじめ多くのフェーデを重ね、その多くで敗れたことが知られ、財政は苦しくなった。それでもアインベックのザンクト・アレクサンドリ修道院のほか、ポールデ、カトレンブルク、オステローデの修道院に寄進を続け、領民には人気があったという。この振る舞いから「奇人公」と呼ばれるようになった。ハーリングスブルクの戦いでも主要な人物の一人であった。
子どもたちの縁組は広く及んだ。娘アーデルハイトは1315年にケルンテン公ハインリヒ6世と結婚し、同名のもう一人の娘アーデルハイト、のちの名をエイレーネーは1318年に東ローマ皇帝アンドロニコス3世パレオロゴスの妃となった。娘マティルデも1318年にメクレンブルク=ヴェルレ=ギュストロー領主ヨハン2世と結婚している。息子のアルブレヒトはドイツ騎士団のメランの指揮官となり、ヨハンはアインベックのザンクト・アレクサンドリ修道院の司祭となった。ハインリヒは1322年に死去し、ブラウンシュヴァイク大聖堂に葬られた。遺領は息子たちが受け継ぎ、ハインリヒ2世はギリシャ公、エルンスト1世はオステローデ公、ヴィルヘルムはヘルツベルク公となった。グルーベンハーゲン系の諸侯は1596年に断絶した。
同じ年に亡くなった人物
- ジャコブス・デ・チェッソリス (1322年)
- マッテーオ1世・ヴィスコンティ (1322年)
- ナスル (ナスル朝) (1322年没)
- テオドル・スヴェトスラフ (1322年(推定))
- ゲオルギ2世テルテル (1322年没)
同じ地域に関係する人物
- アーネスト (ヨーク・オールバニ公) (1728年没)
- テオドール・カルツァ (1954年没)
- モーリッツ (ザクセン選帝侯) (1553年没)
- ヒルデスハイムのゴーデハルト (1038年没)
- マグヌス2世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公) (1373年没)