伝記
アメデーオ5世・ディ・サヴォイアは、1252年か1253年ごろに生まれ、1323年に没したサヴォイア伯である。「偉大な伯」とも呼ばれた。ピエモンテ領主トンマーゾ2世と、ジェノヴァ出身のベアトリーチェ・フィエスキの子である。父は1259年に亡くなり、幼い彼は母の手で育てられたが、のちに叔父で当時リヨン大司教だったフィリッポのもとに呼ばれ、リヨンで学んだ。1272年に、ブレスの領主の娘で全財産の相続人であったシビーユ・ド・ボージェと結婚した。伯位を継ぐ見込みが薄かったため、いとこにあたるイングランド王エドワード1世に騎士として仕え、ウェールズ人と戦った。1277年に第一次ウェールズ戦争に参加し、1282年の第二次戦争ではリズラン城の包囲を解いたチェスターの軍を指揮したとされる。一方で、1277年に病にかかり、翌年に騎士に叙されて、1283年までイングランドの宮廷にとどまったともいわれる。
1285年、叔父のサヴォイア伯フィリッポ1世が嗣子なく世を去った。長兄トンマーゾ3世はすでに1282年に亡くなっていた。アメデーオは、弟ルドヴィーコとの争いの末に、イングランド王の後ろ盾を得て伯位を継いだともいわれる。一族の対立を和らげるため、弟ルドヴィーコにはヴォー地方を与えた。兄の子フィリッポにはピエモンテの領地を認め、トリノとピネローロも与えたが、後見人として自ら直接に治めた。同じ1285年の10月1日には、ジュネーヴ司教との交渉を経て、ジュネーヴの保護者の地位を得た。1287年にはジュネーヴ近くの地を14週間包囲して手に入れ、同じ年にタランテーズ地方の入口に新しい町ロピタルを築いた。1295年にはシャンベリの城を手に入れ、ここは主要な居城となった。1296年にはシャテル=サン=ドニの新市を築き、1297年にはブラバント公ジャン1世の娘マリーと再婚している。
1301年には、ヴァレーの支配をめぐるシオン司教区との争いに決着をつけた。このほか、軍事的な勝利の結果として、ジュネーヴ伯とヴィエノワのドーファンが臣従する立場を受け入れたアヌマッス条約も、アメデーオの成功のひとつとされる。治世のあいだにオーストリア公領との衝突も起こったが、フランス王国との同盟は続け、ノルマンディーのモレヴリエを与えられた。フィレンツェからはジョットの弟子ジョルジョを宮廷に招き、ジョルジョは城を絵画、木彫、フレスコ画で飾った。
1310年から1313年にかけて、アメデーオはドイツ王ハインリヒ7世のイタリア遠征に加わった。ハインリヒ7世は、アメデーオの2番目の妃マリーの姉マルグリットの夫であり、1312年6月29日に神聖ローマ皇帝として戴冠した。アメデーオはその奉仕の報酬として、帝国伯、ロンバルディアの帝国代理、アスティとイヴレーアの領主の称号を与えられた。1315年にはロドス騎士団を支援し、トルコ人からロドス島を守った。アメデーオは1323年10月16日にアヴィニョンで世を去った。
シビーユとのあいだには8人の子がおり、エドアルドとアイモーネは、いずれものちにサヴォイア伯となった。マリーとのあいだの娘のうち、カタリーナはオーストリア公レオポルト1世と結婚し、ジョヴァンナは東ローマ皇帝アンドロニコス3世パレオロゴスの妃となり、ベアトリーチェは1327年にケルンテン公ハインリヒ6世と結婚した。
同じ年に亡くなった人物
- Augustin Kazotic (1323年)
- 馬端臨 (1323年没)
- マリア・ドゥンゲリア (1323年没)
- イザベル・ド・ブルゴーニュ (1323年没)
- フリードリヒ1世 (マイセン辺境伯) (1323年没)
同じ地域に関係する人物
- マックス・ガロ (2017年没)
- ウィム・ドイセンベルク (2005年没)
- Marie Cardinal (2001年没)
- シモーネ・マルティーニ (1344年没)
- マイスター・エックハルト (1328年没)