伝記
マリー・ド・リュクサンブールは、フランス王シャルル4世の2度目の王妃となった人物である。生年は1304年とも1305年ごろともいわれる。父は神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世、母はマルガレーテ・フォン・ブラバントで、兄にボヘミア王ヨハンがおり、ほかにのちのハンガリー王妃ベアトリスがいた。ヨハンの娘ボンヌ・ド・リュクサンブールは、ヴァロワ朝のジャン2世に嫁いでおり、マリーの姪にあたる。
1308年、マリーはバイエルン公ルドルフ1世の長子ルートヴィヒと婚約した。ハインリヒがローマ王の座を得ようと争ったときに、ルドルフが支持を寄せたことへの返礼で、婚約はハインリヒがローマ王となってまもなく決まったとされる。しかし1311年ごろにルートヴィヒが早世し、縁談は実を結ばなかった。同じ年、母マルガレーテはハインリヒとともに旅をしていたジェノヴァで亡くなった。マリーは、まもなく両親を続けて失い孤児となった。
1322年9月21日、マリーはシャルル4世と結婚した。式を挙げた場所はパリともプロヴァンともいわれる。シャルルは最初の妃ブランシュ・ド・ブルゴーニュとの結婚の無効を教皇から得ていた。ブランシュは1314年のネールの塔事件で姦通の罪を問われた人物で、二人の子を産んだものの、いずれも早く亡くなっていた。そのためシャルルには、カペー家を継ぐ男子が必要だった。結婚式のあと夫妻はサン・ドニに向かい、住民に盛大に迎えられた。マリーが新しい王妃としてパリに入る際には、シャルルの叔父シャルル・ド・ヴァロワが自分の馬車を貸した。この結婚によって、シャルルは、帝位を争うフリードリヒ・フォン・エスターライヒをめぐる争いに影響を及ぼせる立場になった。フリードリヒの支持者たちは、リュクサンブール家の娘を妃にしたシャルルを、自分たちの旗頭にしようと考えた。
1323年5月15日、マリーはサント・シャペルで、サンス大司教ギヨーム・ド・ムランにより王妃として聖別された。この年に最初の子を宿し、娘のマリーが生まれたが、まもなく亡くなったとも、流産したともいわれる。1324年3月、教皇を訪ねる夫妻の旅の途中、イスーダンの近くでマリーの乗る馬車が溝に落ちて横転した。マリーは重傷を負って早産となり、3月24日に息子のルイを産んだが、ルイは数時間後、あるいは翌日に亡くなった。国王の医師たちの手当ても及ばず、マリーも3月26日にイスーダンで世を去った。
その2日後、モンタルジのドミニコ会の教会に葬られた。埋葬には夫と兄ヨハンが立ち会った。マリーの死は、シャルルの帝位への野心を絶ち、王位を継ぐ男子も奪った。3か月後、シャルルはいとこのジャンヌ・デヴルーと3度目の結婚をしたが、男子は得られず、カペー本家の血筋はヴァロワ家に引き継がれた。
同じ年に亡くなった人物
- ディーノ・コンパーニ (1324年没)
- Malhun Hatun (1324年)
- サンス (1324年)
- エイマー・ド・ヴァランス (1324年)
- Petronilla de Meath (1324年)
同じ地域に関係する人物
- フェルディナン・ド・レセップス (1894年没)
- アルフォンス・ボレリー (1926年没)
- マフリラ・マヴュバ (1996年没)
- ジャン・ド・ベタンクール (1425年没)
- ソフィア・ヤブロンスカ (1971年没)