伝記
アミール・ホスローは、本名をアブルハサン・ヤミーヌッディーン・フスローといい、1253年に北インドのパティヤーラーで生まれ、1325年10月に没した詩人、音楽家、歴史家である。デリー・スルターン朝の時代に生き、奴隷王朝、ハルジー朝、トゥグルク朝の歴代スルターンに仕えた。ペルシア語を主として、ヒンディー語(ヒンダヴィー)やパンジャーブ語でも詩を書き、その甘い声と詩の巧みさから「インドの鸚鵡」と呼ばれた。カッワーリーの創始者とされ、ガザルの様式をインドに導入したともいわれる。また、シタールやタブラをもたらして、ヒンドゥースターニー音楽の基礎を築いたとされている。
父アミール・サイフッディーン・マフムードは、トルコ系の武将である。中央アジアのケシュの出身で、チンギス・カンの侵攻を逃れた人々とともにインドへ渡り、スルターンのイルトゥトゥミシュに迎えられて、1230年にパティヤーラー一帯の封土を与えられた。母は、インド出身のイスラーム改宗貴族で、スルターンのギヤースッディーン・バルバンの戦争大臣を務めたラワト・アルズの娘とされる。夫妻には三男一女が生まれ、ホスローはその一人で、父は彼が8歳のときの1260年に亡くなった。彼は、父の影響でイスラームとスーフィズムを身につけ、トルコ語、ペルシア語、アラビア語に通じたという。幼い頃から詩の才に恵まれ、9歳で詩を学び始めたとも伝えられる。母とデリーへ移り、1271年には16歳から18歳の頃の詩をおさめた最初の詩集『幼年時代の贈り物』をまとめた。1273年には、113歳だったと伝えられる祖父が亡くなった。
1272年頃から、バルバンの甥マリク・チャッジュらに宮廷詩人として仕えた。1276年にはバルバンの息子ブグラー・ハーンの庇護を受け、ベンガルの彼を1279年に訪ねた。1281年にはバルバンの次男とともにムルターンを訪れ、1285年3月、バルバンの次男ムハンマドがモンゴルとの戦いで戦死すると、ホスローは追悼の詩を二つ書いた。彼自身も兵士としてモンゴルとの戦いに加わり、捕虜になったが、逃げ出すことに成功したとされる。1287年には、後援者のアミール・アリー・ハーティムとともにアワドを訪れている。1290年にハルジー朝のジャラールッディーン・ハルジーが権力を握ると、マスナヴィーの『勝利の鍵』を書き始めた。アラー・ウッディーン・ハルジーの時代には、1298年から1301年にかけてニザーミーに倣った5部作の叙事詩『光の上昇』『シーリーンとホスロー』『アレクサンダーの鏡』『マジュヌーンとライラー』『八天国』を著した。1298年には母と弟を亡くした。1301年にはランタンボール城の攻防戦を、鮮烈な描写で記録している。
彼は、13世紀から14世紀のチシュティー派の聖者ニザームッディーン・アウリヤーの愛弟子でもあった。師は彼を「神のトルコ人」と呼んだという。1316年にアラー・ウッディーンが亡くなり、ムバーラク・シャーが即位すると、『ノフ・セペフル』を書いた。1321年にギヤースッディーン・トゥグルクが権力を握ると、『トゥグルクの書』を著した。1325年、ニザームッディーンが没し、その6か月後にホスローも師の後を追うように亡くなった。墓はデリーのニザームッディーン廟の内にある。
同じ年に亡くなった人物
- エーバーハルト1世 (1325年)
- ディニス1世 (ポルトガル王) (1325年没)
- ユーリー3世 (モスクワ大公) (1325年没)
- シャルル (ヴァロワ伯) (1325年没)
- Memmo di Filippuccio (1325年)
同じ地域に関係する人物
- フィローズ・ガーンディー (1960年没)
- ヴィシュワナート・プラタープ・シン (2008年没)
- マリク・カーフール (1316年没)
- ムハンマド・シャー (サイイド朝) (1445年没)
- Muhammad Khwandamir (1534年没)