伝記
ユーリー・ダニーロヴィチは、1281年に生まれたモスクワ大公で、ゲオルギー・ダニーロヴィチとも呼ばれる。ウラジーミル・スーズダリ大公としてはユーリー3世と数える。初代モスクワ大公ダニール・アレクサンドロヴィチの長子として生まれ、歴史に記された最初の行動は、ウラジーミル大公アンドレイ3世によるペレスラヴリ・ザレスキーへの攻撃を阻止したことだった。1303年に父ダニールが亡くなるとモスクワ公となった。翌1304年にアンドレイ3世が没すると、ユーリーはウラジーミル大公位をめぐってトヴェリ公ミハイル・ヤロスラヴィチと争った。当時のロシアで一般的だった年長制に従えば、父のダニールが大公位に就かないまま亡くなっていたため、ユーリーの要求には正統性に難があった。ミハイルは金帳汗国の首都サライへ出向き、ハーンのトクタからロシア諸公の最高の地位を認められた。ユーリーはこれに逆らったが、ミハイルが1305年と1308年の二度にわたってモスクワに軍を向け、ペレスラヴリとモスクワ自体を包囲したため、ハーンの決定に従わざるをえなかった。
この間にユーリーは、元リャザン公コンスタンティン・ロマノヴィチを殺害させた。コンスタンティンは1302年に父ダニールに捕らえられ、モスクワで投獄されていた。リャザン公国がこの暴挙に驚いている間に、ユーリーはリャザンのコロムナ要塞と、スモレンスク公国のモジャイスクをモスクワ大公国に併合した。1314年までには、キエフおよび全ルーシの府主教の支持を得て、ノヴゴロド公国と対トヴェリ同盟を結んだ。
こうして準備を整えたユーリーは、1315年に金帳汗国へ赴き、2年間とどまってウズベク・ハンとの同盟にこぎつけた。ハーンの妹クンチェクと結婚し、彼女は結婚にあたって正教に改宗し、洗礼名をアガフィヤとした。ウズベク・ハンはミハイルを廃位して、ユーリーをウラジーミル大公に任命した。ユーリーはモンゴルの大軍とともにロシアへ戻ったが、トヴェリとの戦いに敗れ、妻と兄弟のボリスが捕虜となった。ユーリーはノヴゴロドに逃れて和平を訴えた。トヴェリに残されていた妻は、そこで不慮の死を遂げた。ユーリーはこの混乱に乗じて、彼女はミハイルの命令で毒殺されたとウズベク・ハンに報告した。ミハイルとユーリーはサライに召喚され、裁判の後の1318年11月22日にミハイルは処刑された。ユーリーはその後4年間、ウラジーミル大公の座を認められた。
1319年にロシアへ戻ったが、この事件でルーシの諸公と民衆に嫌われた。貢税を集める務めを任されても多くの抵抗にあい、1320年から1322年にはウズベクが少なくとも四度、懲罰の遠征軍を北東ルーシへ送った。なかでもミハイルの息子ドミトリー・ミハイロヴィチは抵抗を続けた。1322年、ドミトリーは父の仇を討つためサライへ向かい、ユーリーがルーシの貢税に手をつけているとウズベク・ハンに訴えた。ハンはドミトリーにウラジーミル大公の認可状を与えた。
1323年、ユーリーはノヴゴロド軍を率いてスウェーデンと戦い、ネヴァ川の河口に要塞を築いた。同年8月12日にオレホヴォ条約を結ぶと、そのまま東へ向かってヴェリキイ・ウスチュグを征服した。1325年11月21日、裁判のために召喚されたが、審理が始まる前にドミトリーに殺された。ドミトリーも8か月後に処刑された。遺体は1326年の初めにモスクワに戻され、府主教ピョートルを筆頭とする正教会の主教たちによって葬られた。ユーリーの死後、モスクワ公位は弟のイヴァン1世が継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- Memmo di Filippuccio (1325年)
- イスマーイール1世 (ナスル朝) (1325年没)
- アミール・ホスロー (1325年没)
- シャルル (ヴァロワ伯) (1325年没)
- ギヤースッディーン・トゥグルク (1325年没)
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