HISTORICAL PERSON · 1325年没

シャルル (ヴァロワ伯)

フランス王フィリップ3世の子でヴァロワ家の祖。軍事に長け兄王の戦争で武功を立てたが、フィレンツェの内乱調停ではかえって混乱を招いた。

生涯
1325年没
死亡地
フランス共和国(ウール=エ=ロワール県 / ノゲント=レ=ロイ)
出生地
フランス共和国(ヴァンセンヌ)
出典
世界地図
フランス共和国(ウール=エ=ロワール県)

伝記

シャルル・ド・ヴァロワは、1270年3月12日に生まれ、1325年12月16日に没したヴァロワ伯で、カペー家の一員にして、のちにフランスを治めるヴァロワ家の祖である。フランス王フィリップ3世と最初の妃イザベル・ダラゴンの四男で、フィリップ4世の弟にあたる。祖父はルイ9世である。1284年に父からヴァロワ伯に叙せられ、アランソン伯領とペルシュ伯領も分封地として与えられた。

若いころから大きな望みを抱き、生涯にわたって手に入らなかった王冠を求めつづけた。1284年、教皇マルティヌス4世は、彼を母イザベルの縁でアラゴン王と認めた。シチリアを征服して教皇の敵となったアラゴン王ペドロ3世に対抗するためである。父フィリップ3世は、兄フィリップ4世の反対を押してアラゴン十字軍を起こした。シャルルは王国を得られると信じたが、得たのは1285年に枢機卿の帽子をかぶせられるという嘲りだけで、「帽子の王」とあだ名された。このとき作られた王の印章を使う勇気はなく、称号も捨てなければならなかった。1290年には、ナポリ王カルロ2世の長女で又従妹のマルグリット・ダンジューと結婚した。この結婚でアンジュー伯とメーヌ伯の位を得たといい、1297年に兄王からアンジュー伯に叙せられたともいわれる。夫婦には2男4女が生まれ、1293年生まれの長男フィリップは、のちのフランス王フィリップ6世である。1297年にはフランドルで巧みに軍を指揮した。

軍事の才に恵まれ、兄王の戦争で武功を重ねたが、マルグリットは1299年に世を去った。1300年か1301年に、教皇ボニファティウス8世の求めでフィレンツェの内乱を調停するために出向いたものの、かえって暴動と混乱をあおる結果となり、配下の者たちは群衆を虐殺した。1301年か1302年には、ラテン帝国の名目上の女帝カトリーヌ1世・ド・クルトネーと再婚した。カトリーヌは先妻の従妹で、自身の又従妹でもある。この結婚で彼もコンスタンティノープルの帝位を主張できる立場となり、1301年から1307年まで名目上のラテン皇帝とされた。教皇は、ビザンツ帝国にカトリックの君主を立ててラテン帝国を復活させ、また約20年続くシチリアをめぐる戦争を終わらせたいと考え、シャルルを利用しようとした。教皇代理に任じられたシャルルは、私兵のフランス軍を率いてイタリアに入った。1302年5月にシチリアへ上陸したが、住民の激しい抵抗に遭い、シャッカの攻略に失敗して補給を断たれ、島の南岸で包囲された。軍が滅びる前にカルタベッロッタの和約を結び、この遠征は戦いらしい戦いもないまま失敗に終わった。

妻の帝国を取り戻す望みを抱いたシャルルは、まず兄フィリップ4世の助けを求めた。兄は資金を出すと約束したが、1302年のクルトレーの戦いの大敗とフランドルとの戦争、教皇との対立に手いっぱいで、十字軍を起こす余裕はなかった。1308年にカトリーヌが没すると、サン=ポル伯ギー4世の娘マオー・ド・シャティヨンと3度目の結婚をした。シャルルがフランス王位継承の第一候補となったのは1322年から1324年にかけてと、再び1324年から没するまでである。ヴァロワ家は、彼の死の3年後の1328年に、長男フィリップ6世のもとで王家となった。3度目の妻とのあいだの娘ブランシュは、のちに神聖ローマ皇帝およびボヘミア王となるカール4世と結婚した。

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