伝記
アニェス・ド・フランスは、ブルゴーニュ公ロベール2世の妃となったフランス王女である。一二六〇年ごろに生まれ、フランス王ルイ9世(聖王ルイ)と王妃マルグリット・ド・プロヴァンスの末の娘であった。両親の十一人の子の末子にあたり、兄姉には、ナバラ王妃となったイザベルや、父の跡を継いだフィリップ3世、ブラバント公妃となったマルグリットらがいる。祖父母は、父方がルイ8世とブランシュ・ド・カスティーユ、母方がプロヴァンス伯レーモン・ベランジェ4世とベアトリス・ド・サヴォワであった。
ロベール2世との結婚は一二七三年とも一二七九年ともいわれ、夫妻の子は八人とも十人ともいわれる。一三〇六年に夫が没すると、アニェスはブルゴーニュ公領の摂政となり、子供たちの後見も引き受けた。後継者となった次男ユーグが成人してユーグ5世となる一三一一年まで、摂政を務めた。一三一五年にユーグが亡くなったあとは、三男で次の公となったウード4世の顧問を務めた。
この間の一三一四年、アニェスの娘マルグリットは、フランス王太子ルイの妃となっていたが、義父のフィリップ4世の命令で、ノルマンディーの騎士フィリップ・ドネーとの姦通の罪に問われて幽閉され、のちの裁判で有罪とされた。翌一三一五年にフィリップ4世が没して夫がルイ10世として即位したため、マルグリットは王妃となったが、終身刑が決まり、ガイヤール城に投獄された。そのため、マルグリットとルイ10世のあいだに生まれた孫娘のジャンヌについても、嫡出かどうかが疑われるようになった。アニェスは息子のウード4世の支援を受けて、特にマルグリットの死後は、まだ幼いジャンヌのフランスとナバラの王位継承権を守るために戦った。
一三一六年六月五日にルイ10世が没すると、その弟であるポワティエ伯フィリップがまず摂政となり、やがて王に選ばれてフィリップ5世となった。ジャンヌのフランス王位の継承権は、これによって奪われた。アニェスはウード4世とともに、ブルゴーニュ、フランドル、アルトワの領主たちに孫娘の継承権を守る支援を求めたが、女性はフランスの王位に就けないというサリカ法を理由に退けられ、失敗に終わった。一三二二年にフィリップ5世が没したときも、男の跡継ぎがおらず、姪のジャンヌの権利は無視されて、弟のシャルル4世が王位とナバラ王位を継いだ。一三二三年には、アルスナンの館で遺言をしたためている。
アニェスは一三二七年十二月十九日にコート=ドールで世を去り、シトー修道院に葬られた。ただし没年を一三二五年とする説もある。その翌年の一三二八年にシャルル4世が没すると、孫娘のジャンヌはナバラ王位を継ぐことに成功した。娘のブランシュはサヴォイア伯エドアルドの妃となり、同じ名の娘ジャンヌは、のちのフランス王フィリップ6世に嫁いだ。ルイは名目上のテサロニキ王で、マリーはバル伯エドゥアール1世と結婚し、末のロベールはトネール伯となった。
同じ年に亡くなった人物
- ウォルター・ステュアート (1327年)
- エドワード2世 (イングランド王) (1327年没)
- Shams al-Din al-Ansari al-Dimashqi (1327年没)
- アンナ・フォン・エスターライヒ (1280-1327) (1327年没)
- アドルフ (ライン宮中伯) (1327年没)
同じ地域に関係する人物
- ユーグ5世 (ブルゴーニュ公) (1315年没)
- 三位一体のエリザベト (1906年没)
- ジャン=アンドシュ・ジュノー (1813年没)
- ロベール1世 (ブルゴーニュ公) (1076年没)
- Henri Eberhardt (1976年没)