伝記
初代マーチ伯ロジャー・モーティマーは、1287年4月25日、ヘレフォードシャーで第2代モーティマー男爵エドマンドと、妻マーガレット・ド・ファインズの息子として生まれたイングランドの貴族である。ノルマン人の家系に連なり、父方の祖母を通じて初代ペンブルック伯ウィリアム・マーシャルの玄孫にあたる。1301年に婚約者ジョーン・ド・ジェネヴィルと結婚し、ラドロー城をはじめウェールズ国境地帯の土地を多数相続して、アイルランドにも影響力を持った。
1304年に父がウェールズでの戦闘で戦死したとき、ロジャーは未成年であったため、王太子エドワード(のちのエドワード2世)の側近ピアーズ・ギャヴィストンが後見人となった。1306年にはウェストミンスター寺院の式典でエドワード1世から騎士に叙任された。1308年にアイルランドへ渡り、妻の所領をめぐる現地の競争相手と争い、スコットランド王ロバート1世の弟エドワード・ブルースの侵攻にも対抗した。1316年にはエドワード2世からアイルランド総督に任じられ、ブルース派の掃討に努めた。1318年にイングランドへ戻り、1319年には最高法官となった。
宮廷では国王の寵臣ヒュー・ル・ディスペンサー父子が権勢をふるい、貴族との対立が深まっていた。モーティマーは当初この争いに中立的だったが、父子との確執を深め、反国王派のハンフリー・ド・ブーンを支持するようになり、1321年に国王の召還を拒んで貴族の反乱に加わった。しかし1322年1月にシュルーズベリーで降伏してロンドン塔に投獄され、1324年8月に脱走してフランスへ亡命した。翌1325年、夫やディスペンサー父子と対立していた王妃イザベラがフランスを訪れると、モーティマーは彼女に近づいてその愛人となり、クーデター計画に協力した。
1326年9月、二人は約700の兵を率いてイングランドに上陸し、およそ1か月で国を制圧した。エドワード2世とディスペンサー父子を捕らえ、父子ら宮廷派は処刑された。1327年1月の議会でエドワード2世は廃位されて、エドワード3世が即位した。のちにエドワード2世は王妃の命令で殺害されたとされる。15歳の新王のもとでイザベラが摂政となり、モーティマーもその寵愛を背景に権力を握って、ウェールズや辺境に所領を広げ、1328年10月27日の議会でウェールズ辺境伯、すなわちマーチ伯の称号を受けた。
この急な昇進はランカスター伯ヘンリーをはじめ、王族に連なる諸侯の反発を招いた。スコットランドとの戦争では、軍資金に苦しむ二人が講和を懇願してロバート1世をスコットランド王と認めた。エドワード3世の妹ジョーンとロバート1世の長男デイヴィッドの結婚も取り決められたが、この講和は国内の合意を得ないまま進められたため「屈辱外交」と非難された。1330年春の議会でケント伯エドマンドが反逆罪で処刑されると、18歳になっていたエドワード3世はこの独断に憤り、親政の機会をうかがった。同年10月、ノッティンガムでの諸侯会議のさなかにモーティマーは逮捕され、議会で絞首刑を宣告されて、11月29日にタイバーンで処刑された。イザベラは政治から引退した。マーチ伯位は一度消滅したが、1354年に同名の孫が回復した。ジョーンとのあいだには11人の子があった。のちに曾孫のアン・モーティマーを通じて王家と結ばれ、その子孫からヨーク朝、テューダー朝、ステュアート朝の王が出た。
同じ年に亡くなった人物
- ウゴリーノ・ディ・ネリーオ (1330年)
- ミハイル3世シシュマン (1330年没)
- ジャンヌ2世 (ブルゴーニュ女伯) (1330年没)
- ヨランド・ド・ドルー (スコットランド王妃) (1330年没)
- 馬致遠 (1330年)
同じ地域に関係する人物
- オースティン・チェンバレン (1937年没)
- アーサー・ウェイリー (1966年没)
- ジョン・ソーン (1837年没)
- ジョン・エックレス (1735年没)
- ジョージ・マウントバッテン (第2代ミルフォード・ヘイヴン侯爵) (1938年没)