伝記
ヨハネス22世は、アヴィニョン捕囚の時期のローマ教皇(在位1316年〜1334年)である。本名はジャック・ドゥーズといい、フランス南西部の商業都市カオールの裕福な中産階級の出身である。生年は1244年とされるが、疑問符が付く。教皇派の指導者と見なされたナポリ王ロベルト1世の秘書を務めたのち、フレジュスの司教、1310年からアヴィニョンの司教を経て、1312年に枢機卿に任命された。
当時の教会は混乱していた。1303年のアナーニ事件の直後にボニファティウス8世が没して枢機卿団が分裂し、フランス王フィリップ4世の干渉もあって、1309年には教皇庁が南仏のアヴィニョンに移っていた。クレメンス5世が1314年に亡くなると、教皇位は約2年間空位となり、1316年、72歳ごろのドゥーズ枢機卿が新教皇に選ばれた。登位は8月7日である。彼は教皇庁をローマに戻す気は全くなかったが、高齢にもかかわらず、優れた教皇として周囲から期待された。驚異的な根気強さで教皇庁の財政再建に努め、没したとき金庫には大量の金貨があったといわれる。行政改革を行い、三位一体の祝日を制定し、クレメンス5世と自身の教令を編纂して『教皇教令集』として発刊した。この書は教会法の発展に寄与した。また、アジアへの伝道を奨励し、アヴィニョンに図書館を設ける事業に着手し、1331年には故郷のカオールに大学を創設した。1318年には、ケンブリッジ大学に、全キリスト教国に通用する学位の認定を承認したという。
一方、フランシスコ会の清貧論争への介入は、峻烈だった。1317年、南仏ナルボンヌとベジエの聖霊派修道士に、清貧の象徴となっていた短い僧衣を捨て、主流派の総長に服従するよう命じ、61名を名指しでアヴィニョンに召喚した。査問は逮捕の口実にすぎなかったと、当事者の一人は記している。同年10月には勅書を発して、総長の権威に従うよう求め、勅書は「清貧は偉大なり。然れども、公正はさらに偉大であり、もし完全に保たれるならば、すべての中で服従こそがもっとも善きことである」の言葉で結ばれた。なおも抵抗した5人は異端とされ、直前に悔悛した1名を除く4名が、1318年5月7日にマルセイユで火刑に処された。1322年にフランシスコ会総会が、キリストと使徒は私有財産を持たなかったと表明すると、教皇はこれを異端と非難し、会は教皇に従う者と従わない者に再び分裂した。総長チェゼーナのミケーレやオッカムのウィリアムらは、1328年に皇帝ルートヴィヒ4世のもとへ逃れた。
皇帝ルートヴィヒ4世とも対立した。帝冠を授けなかったため関係は悪化し、1328年、皇帝はローマ市民を代表して帝冠を受け、教皇の廃位を宣言した。フランシスコ会の修道士ピエトロ・ライナルドゥッキも対立教皇ニコラウス5世に擁立されたが、1330年に降伏した。教皇は執念深い性格ではなく、彼にはアヴィニョンの教皇庁内に部屋が与えられた。ほかに、ロタ法廷の整備、錬金術の禁止、オッカムやエックハルトへの異端審問でも知られる。晩年の1331年の冬には、至福は最後の審判まで得られないという見解を説教で述べて、パリ大学などから異端との非難を浴びた。教皇の晩年は寂しいものとなり、臨終の悔悛でかろうじて救われたとされる。1334年12月4日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- サフィー・アッディーン・イスハーク・アルダビーリー (1334年没)
- タルマシリン (1334年没)
- オットー4世 (バイエルン公) (1334年没)
- フィリッポ1世・ディ・サヴォイア=アカイア (1334年没)
同じ地域に関係する人物
- ウルバヌス5世 (ローマ教皇) (1370年没)
- ジラール・ド・ルシヨン (870年代没)
- エマ・チャドウィック (1932年没)
- カミーユ・クローデル (1943年没)
- イヴォ・ヴァンダム (1976年没)