HISTORICAL PERSON · 1340年代没

パドヴァのマルシリウス

中世イタリアの哲学者・神学者。パリ大学の学長を務め、1324年に人民主権理論の先駆とされる『平和の擁護者』を著した。ルートヴィヒ4世を支持して教皇に破門され、皇帝戴冠でも重要な役割を果たした。

生涯
1340年代没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バイエルン州 / ミュンヘン)
出生地
イタリア共和国(パドヴァ)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バイエルン州)

伝記

パドヴァのマルシリウスは、中世イタリアの哲学者、神学者であり、医者でもあった。生年は1275年、1280年、1290年などとされて定まらず、没年は1342年か1343年とされる。主著『平和の擁護者』は、人民主権理論の先駆と考えられている。マイナルディーニ家の出身で、一族は裁判官や公証人を輩出した家系であり、父ボンマッティオとともにパドヴァに生まれた。

パドヴァ大学で医学を修め、1311年ごろにはイタリアで医者として活動した。法学と医学のどちらを学ぶべきか詩人アルベルティーノ・ムッサートに尋ね、医学を勧められたという話も伝わっている。1312年ごろにパリへ移ってパリ大学で哲学や医学を学び、自然科学での名声に基づいて、1312年12月から1313年3月の間、学長を務めた。パリでは友人となるジャンダンのヨハネスと知り合い、のちにこの友とともに亡命の身を味わうことになる。1316年にはパドヴァに戻って医業に復帰したが、その後は各地を転々とし、パリで医業に携わるかたわら、1324年に『平和の擁護者』を著した。

1322年から単独のローマ王となっていたバイエルン大公ルートヴィヒ4世と教皇ヨハネス22世の間では、1323年から論争が続いていた。ルートヴィヒ4世がイタリアへ皇帝代理を派遣して皇帝戴冠を目指したのに対し、教皇が異議を唱え、1324年にはルートヴィヒ4世の破門とドイツ全土の聖務停止を宣言した。マルシリウスとジャンダンのヨハネスは、2人ともヨハネス22世に恩義があったにもかかわらず、この論争でルートヴィヒ4世を支持し、その庇護を求めた。1326年に2人が宮廷に到着して『平和の擁護者』を献上すると、ルートヴィヒ4世は当初その政治理論の大胆さに驚き異端ではないかと考えたが、すぐに考えを改め、2人を宮廷に招いて好意を寄せるようになった。マルシリウスは1327年4月3日、ヨハネス22世により破門された。

マルシリウスは帝国の方針を擁護する重要な論者となり、ルートヴィヒ4世のイタリア遠征に随行した。ミラノでは教皇を書面で攻撃し、ローマでは、皇帝は教皇ではなく人民によって選ばれるという『平和の擁護者』の主張に基づいて人民の集会を組織した。この集会によってルートヴィヒ4世は1328年1月17日に皇帝として宣言され、4月18日にはヨハネス22世の追放が宣言されて、フランチェスコ会士コルバーラのピエトロがニコラウス5世として擁立された。マルシリウスはルートヴィヒ4世からローマの教皇代理に任命され、ヨハネス22世を支持する聖職者たちを迫害した。ジャンダンのヨハネスがフェラーラの司教区を得たのと同じころ、マルシリウス自身もおそらくミラノ大司教に任命された。のちには『帝権委譲論』で神聖ローマ皇帝の支配権を正当化し、ルートヴィヒ4世がモラヴィア辺境伯ヨハン・ハインリヒと妻のチロル伯女マルガレーテを離婚させた介入も擁護した。

晩年の記録は乏しい。1343年4月10日に教皇クレメンス6世がマルシリウスを死者として扱っていることから、それ以前に世を去ったと推察される。理性と信仰の分離を唱えたその思想は、教会と世俗の一体的な社会を想定する点で中世的でありながら、人民主権理論や絶対主義的な国民国家理論の先駆として高く評価されている。

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