HISTORICAL PERSON · 1341年没

アンドロニコス3世パレオロゴス

東ローマ帝国パレオロゴス朝の第4代皇帝。祖父アンドロニコス2世との7年に及ぶ内乱に勝って1328年に退位させた。オスマン帝国に敗れて小アジアを諦め、エピロス専制侯国を併合した。

生涯
1341年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / コンスタンティノープル)
出生地
トルコ共和国(コンスタンティノープル)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

アンドロニコス3世パレオロゴスは、1297年3月25日にコンスタンティノープルで生まれ、1341年6月15日に没した東ローマ帝国パレオロゴス朝の第4代皇帝(在位1328年5月24日〜1341年6月15日)である。第2代皇帝アンドロニコス2世の孫で、共同皇帝ミカエル9世と皇后マリアの子であり、祖父と区別して「少帝」とも呼ばれる。1313年頃には、父に続いて祖父の共同皇帝・帝位継承者に引き上げられたが、継承者にふさわしくない品行の悪さから、祖父に次第に遠ざけられた。1320年に彼が誤って弟マヌエルを死なせ、それを悲しんだ父ミカエル9世も間もなく世を去り、この事件と若者たちとの放縦な生活が祖父との関係を悪化させたといわれる。祖父は彼の帝位継承権を剥奪し、ミカエル9世の弟コンスタンティノスと、その庶子ミカエル・カタロスを後継者に推した。

これに対して彼は、1321年に友人のヨハネス・カンタクゼノス、シュルギアンネス、テオドロス・シュナデノスらと結び、公然と祖父に反旗を翻し、七年間の内乱が始まった。減税などの人気取りの政策で民衆の支持を得て、数度の和平協定と再戦の末、1328年に祖父を退位に追い込んだ。アンドロニコス2世は修道士となり、1332年に死去した。皇帝となったとき、帝国は疲弊しており、軍の移動で農業生産は損なわれ、貨幣は価値を落とし、属国だったテッサリアとエピロスは独立を回復していた。彼は1329年に司法制度の改革に乗り出し、四人の最高裁判官からなる裁判所を置いて、有力者の影響を抑えようとした。

最も急を要したのは、内乱中に小アジアで勢力を広げていたオスマン帝国の問題で、1329年、カンタクゼノスとともに遠征し、ニカイア近辺でオスマン君主オルハンに挑んだが、負傷して退却した。この結果、小アジアの帝国領はオスマン帝国の手に落ちることが確実になった。ニカイアは1331年に、ニコメディアは1337年にオルハンの手に落ち、帝国の手にはフィラデルフィアといくつかの港が残るのみとなった。そこで関心をバルカン半島に向けた。またジェノヴァ人の手にあったフォカイアとキオスも回復したとされる。当時、勢力を広げていたセルビアが、カンタクゼノスとの政争に敗れて亡命したシュルギアンネスを擁して帝国西部の征服に乗り出したが、アンドロニコスは刺客を放って彼を暗殺し、事態を収拾した。続いて、衰えたエピロス専制侯国の併合に成功し、1340年に完全に帝国領となって、1204年から続いた東ローマ勢力の分断に一応の終止符を打った。

後継者問題も抱えていた。1317年に結婚した最初の妃アーデルハイト(エイレーネー)との息子は早世し、彼女自身も1324年に没した。1326年にサヴォイア伯アメデーオ5世の娘ジョヴァンナ(アンナ)と結婚したが、息子が生まれる前に重病で危篤となり、宮廷では誰を後継者にするかが議論された。彼は奇跡的に回復し、1332年に長男ヨハネスが生まれ、のち次男ミカエルと娘も生まれた。しかし1341年に45歳で死去し、息子の成長を見届けられなかった。その死は動乱の始まりを告げたが、種は彼の存命中にすでにまかれていたという。統治者としては、高い知性を持つ一方、怠惰で気まぐれで猜疑心が強いともされ、諸史料の評価は一致しない。イブン・バットゥータは、コンスタンティノープルで彼に謁見したと語っている。

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