伝記
ティーニー・ベクは、ジョチ・ウルスの第11代当主で、1342年に没した人物である。ティニベクとも呼ばれる。先代ウズベク・ハンの息子で、母はウズベクの4人の正妃のうち第一正妃で大ハトゥンであったタイ・ドゥラである。次の当主となるジャーニー・ベクとは同じ母から生まれた兄弟にあたる。名前のティーニーは、ペルシア語で「肉体」を意味する語から派生した「肉体の」という意味の単語に由来し、弟の名であるジャーニー(「魂の」の意味)と対になっている。
1328年ごろには白のオルダの総督に任じられた。1330年に兄のティムール・ベクが没すると、後継ぎと目される立場になったとされる。1330年か翌年にはアヌーシールワーン・ハトゥンと結婚し、ジャミーラ・マリカ・ハトゥンという妻もいた。1334年ごろにウズベクの宮廷を訪れた旅行家イブン・バットゥータは、金曜礼拝のとき、玉座の段の右側に第一王子としてティーニー・ベクが、左側に第二王子として弟のジャーニー・ベクが座っていたと伝えている。イブン・バットゥータによると、ティーニー・ベクは容姿に優れ、父から次の当主に指名されて敬意を表される地位にあった。
1341年から1342年にかけて、ウズベクが没した。ティーニー・ベクはそのころ、チャガタイ・ウルスに対する遠征に出ていたとされ、宮廷に残っていたジャーニー・ベクが、母タイ・ドゥラの助けを受けて摂政を務めた。ティーニー・ベクが宮廷へ戻ろうとしていると聞いたタイ・ドゥラは、ジャーニー・ベクの身を案じて首長たちをそそのかし、サライ・ジュクで彼を殺させたともいわれる。ジャーニー・ベクが策を巡らせて、弟のヒドル・ベクとともに兄を殺害させたとも伝えられる。ジャーニー・ベクはクリルタイで推されて当主となった。在位が短かったためか、後の文献では、ウズベクとジャーニー・ベクの間から省かれることもある。
治世のうちに、ヴォルィーニはリトアニア大公国に奪われた。詩人クトゥブは、ニザーミーの『ホスローとシーリーン』をトルコ語に訳して、ティーニー・ベクとその妻ジャミーラ・マリカ・ハトゥンに献じた。ティーニー・ベクはキリスト教に好意的だったとされ、教皇ベネディクトゥス12世から改宗を勧める書簡を受け取った。イブン・バットゥータは、ティーニー・ベクのほうが玉座にふさわしい人物だったと考えていた。
同じ年に亡くなった人物
- アンナ (1342年没)
- チェゼーナのミケーレ (1342年)
- カーロイ1世 (ハンガリー王) (1342年没)
- ロベール3世・ダルトワ (1342年没)
- バルトロメオ・グラデニーゴ (1342年)
同じ地域に関係する人物
- トゥラ・ブカ (1291年没)
- バラク (ジョチ家) (1420年代没)
- ジャーニー・ベク (1357年没)
- ウラジーミル・コマロフ (1967年没)
- ヴァハン・テリアン (1920年没)