HISTORICAL PERSON · 1291年没

トゥラ・ブカ

ジョチ・ウルス当主。トダ・モンケを廃して即位したが、有力者ノガイと対立し騙し討ちに遭って処刑された。

生涯
1291年没
死亡地
—
出生地
ジョチ・ウルス(オレンブルク州 / ジョチ・ウルス)
出典
世界地図
ジョチ・ウルス(オレンブルク州)

伝記

トゥラ・ブカは、ジョチ・ウルスの第8代当主(ハン)である。生年は伝わらない。バトゥの次男トクカンの長男ダルブの長男で、バトゥの曽孫にあたり、モンケ・テムルやトダ・モンケの甥、ゴンチェクの兄である。バトゥの子孫の中でも年長の家筋に属しており、祖父がジョチの七男で、側室の血を引くノガイとは立場が違っていた。ノガイは自らハンになることができなかった。

若い王族だったトゥラ・ブカは、1258年から1259年にかけて、ブルンダイを総司令とするリトアニア遠征に加わり、戦功を立てたという。ほどなくノガイとともにポーランドへも攻め入った。1284年か1285年には、クルスク公国のルーシの諸公が、取り立てのきびしい徴税官アフマドのことを彼に訴えた。トゥラ・ブカがアフマドの所領を破壊させると、アフマドはノガイに訴え出て、ノガイの支持を得た。このため襲撃が何度も繰り返された。1285年には、ノガイの立てた計画に従ってハンガリーへの遠征に加わった。当時のハンのトダ・モンケは冬営地にとどまっていた。トゥラ・ブカの隊はカルパティア山脈の大雪で馬や食糧を失い、数千人が死んだ。それでも修道院を破壊し、ハンガリー中部を荒らし、ペシュトの町を焼いた。帰路ではセーケイ人の軽騎兵に待ち伏せされた。その後も飢えた兵を率いて、ヴォルィーニなどルーシ王国の町々を略奪した。

トダ・モンケの摂政となってからは、ノガイと不和になった。1287年、トダ・モンケはイスラム教を信じて祈りと修行に打ち込み、政治をほとんど行わなかった。そのため、オルグイ、トグリルジャ、ゴンチェク・ブカ、そしてトゥラ・ブカの4人の有力な親族が、君主として不適格だと判断して廃位し、トダ・モンケは位をトゥラ・ブカに譲ったという。マルコ・ポーロは、ノガイの助けを得てトゥラ・ブカがトダ・モンケを殺したと伝える。ペルシアの史家ラシード・アッディーンの記述は、ノガイの助けなしの廃位を思わせる。ハンとなったトゥラ・ブカは、弟ゴンチェクと、モンケ・テムルの長男アルグイらを重く用いた。

同じ1287年の後半、ルーシ王国のウラジーミル地方を略奪し、1287年から1288年にはポーランドへ第三次の遠征を行った。これはモンゴルによるポーランド遠征の中で最大の規模だったとされる。西のルーシの諸公にも自ら軍を連れて加わるよう命じ、ハリチ王レフ1世らが配下として合流し、アルグイとノガイも軍を率いて加わった。

のちにトゥラ・ブカは、カルクの地方を討つため軍を出し、ノガイにも進ませた。両軍は合流してこの地を略奪して退いたが、大雪に見舞われ、ノガイは別れて自分の冬営地へ帰った。トゥラ・ブカは道に迷って食糧が尽き、馬や猟犬、戦友の遺体の肉を食べて生き延びた。ノガイに罠にかけられたと疑って激しく怒り、帰還すると、ノガイを討つ軍を集めた。1291年、ノガイは知らないふりをして、トゥラ・ブカの母に手紙を送り、会いに行くよう息子に勧めさせた。トゥラ・ブカは軍を解散して出向いた。その間にノガイはモンケ・テムルの子トクタらを呼び寄せ、伏兵とした。トゥラ・ブカはアルグイらとともにノガイを訪ね、語り合ったが、伏兵に縛られた。ノガイはトゥラ・ブカをトクタに引き渡して殺させ、トクタが摂政たちの権限を奪ってハンの位についた。

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